東京から「特急ひたち」に乗ると、ちょうど1時間で水戸に着く。そこからしばらく北進して右手に海が見え始めると、そこが茨城県日立市だ。

 1900年代初頭から発掘された日立鉱山の銅は44万トンにもなり、そこから日立製作所が誕生。近代産業史に大きな影響を及ぼした。鉱山の煙害対策のために14年に立てられた155・7メートルの煙突は、当時世界一だった。93年に倒壊してしまったが、かつての日立のシンボルは新田次郎氏の「ある町の高い煙突」という小説にもなっている。

 私の幼少時代は、日立製作所の工場に勤務する労働者で栄えた街。夏になれば海水浴客らで、さらににぎわった。近年は日立製作所の工場縮小と、東日本大震災による福島第1原発の放射能の風評被害で、街は活気を失いつつある。

 その日立市のちょうど真ん中に、茨城県立日立工業高校はある。そう、現役引退を表明した元日本代表で千葉FW鈴木隆行選手(39)の母校だ。

 長くサッカー担当をしているが、関西中心の取材活動をしてきたため、面識はない。取材をした記憶も、ほとんどない。だが、同じ日立市で幼少時代を過ごした同世代の1人として、鈴木選手の記事が書きたくなった。彼の功績に敬意を表して-。

 日立工業高は、地元ではサッカーの強豪校だった。それでも近年は私立高校に選手が流れ、今年の高校選手権は茨城県予選2回戦で敗退している。野球部は81、89年の春に2度甲子園に出場。「大友兄弟」と呼ばれ、双子で街をにぎわせた兄は、95年にドラフト2位で西武に入団。99年オールスターでランニング本塁打を記録した。部活動に力を入れている高校だった。

 とはいえ、田舎の公立高校からW杯で活躍する選手が出ようとは、誰が想像しただろう。02年W杯日韓大会の1次リーグ初戦・ベルギー戦。鈴木選手がつま先で押し込んだゴールは、日本中を歓喜の渦に包み込んだ。

 天才ではないのだろう。努力だけではい上がった男の生き様はすてきだ。時には強烈に輝き、また時には、輝きが薄れた不遇の時もあった。Jリーグだけでなく、ブラジルからベルギー、セルビア、米国…。渡り鳥のように、必要とされれば世界中、どこにでも行った。経歴に記されているクラブ数は11にもなる。

 11年3月11日に発生した東日本大震災は、彼の引退を遅らせた。あの津波は、日立の沿岸にも襲いかかってきた。茨城が深く傷ついたのを知ると、同年6月に無報酬のアマチュア契約でJ2水戸に加入。世界中でプレーした渡り鳥でも、生まれ育った故郷への思いは強かったのだろう。当時、鈴木選手の水戸入りのニュースを聞いて、胸が熱くなったのを覚えている。

 今月7日の引退会見。鈴木選手のコメントを少し紹介したい。そこにはプロ選手の苦悩と、故郷への愛があふれている。

 「(プロ生活の)21年間、常に苦しかったです。試合に出ていなかったこともありますし、試合に出ても重圧の中で戦わなければいけない。期待に応えなければいけない苦しさもありました。代表に選ばれているのに、翌年には(クラブで)試合に出られないとか。常に苦しさを伴いながらプレーしていました。苦しさを乗り越えて、自分を変えたい。苦しさを乗り越えないと(自分を)変えられないと思っていた。苦しい中でもこんな経験ができて、いい人生だなと思った」

 「米国から一時帰国した翌日に、東日本大震災が起きました。(茨城が)あのような状況になって(米国に)帰りたくないと思いました。そこで何かできることがないかを探したのですが、結局はサッカーしかできなくて。サッカーを通じて、少しでも地元のためになればと思って(水戸で)プレーすることになりました。でも、自分が何かをしたいと思っていましたが、逆に勉強させてもらうことや、支えて頂くことがたくさんあった。いつの間にか、自分が支えられていました」

 昨季限りで水戸を離れ、千葉に移る際のこと。水戸のクラブスポンサーである誠不動産が、鈴木選手への感謝の広告を出した。

 「どこに行っても必ず貴方を応援します」

 そんな内容だった。それほど、地元に愛された。

 あなたの故郷の自慢は何ですか? そう聞かれたら、私はこう答えるだろう。

 W杯でゴールを決めた選手が生まれ育った街です、と。


 ◆益子浩一(ましこ・こういち)1975年(昭50)4月18日、茨城県日立市生まれ。高校まで日立で暮らし、京都の大学生活を経て00年に大阪本社入社。04年からサッカー担当。W杯は10年南アフリカ、14年ブラジル大会を取材。