JR大阪駅から神戸線に乗って西へ15分ほど。武庫川を渡ると、甲子園口駅に到着する。南海時代の野村克也さんは、チームメートの多くが、本拠の大阪球場へ南海電車で1本の大阪・堺に住む中、甲子園口の閑静な住宅地に居を構えていた。
1960年代に日刊スポーツの南海担当だった西本忠成さん(77)は、しばしば野村邸へ通った。
「広い芝の前庭があって、若手選手が自主練習していました。奥のダイニングでは、球界と関係ない知人も集まって、お好み焼きパーティー。深夜から未明までは記者を集めて野球談議。人の出入りが多いにぎやかな家でしたね」
しかし野村さんは、甲子園口の家を飛び出し、やがて沙知代夫人と大阪・豊中のマンションで暮らし始めた。考え直すよういさめた知人たちも、いつしか野村さんと距離を置くようになった。
それから30年ほどが過ぎた1999年(平11)、日刊スポーツを退職していた西本さんは、フリー記者として、阪神監督に就任した野村さんを迎えた。球団は三顧の礼で迎え、ファンは熱い期待を寄せたが、成績は低迷。ヤクルトでの実績をひっさげて、俺がやれば変わると意気込んで就任したものの、野村さんはすっかり弱気になっていた。西本さんに「もう辞めたい」と漏らし、言葉を継いだ。
「俺、甲子園ではええことしてないからなぁ。バチが当たったのかもしれん」
だが、野村さんを救ったのは、多くの人が関係をいさめた沙知代夫人だった。当時、夫人の脱税疑惑がメディアをにぎわせ、失意の野村さんは追い込まれているように見えた。だが、夫人は「このまま辞めるつもりなの? 野村の名が泣くわよ!」とハッパをかけた。
疑惑について「それがどうした」と平然としたもの。西本さんは「野村さんは、沙知代さんの言葉で気持ちを奮い立たせていました。そういう存在が野村さんには必要だったのだと思います」と話す。
3年連続の最下位に終わった01年12月、夫人の脱税事件の責任を取る形で、野村さんは退任した。しばらく行方が分からなくなっていた野村さんから、ある日、西本さんの携帯に電話があった。
「4年目に向けて、いい感じだったのに残念です」と水を向けると、野村さんは「フフフ」と笑っていた。「監督としての力量を問われての解任ではない、野村野球が否定されたわけじゃない、という気持ちは間違いなくあったでしょう」。
野村さんがこの世を去っておよそ4カ月。西本さんは今も、試合前、打撃ケージ脇で手招きする野村さんの姿を覚えている。「ずっと考えてることがあるんや」と切り出して「1点負けで9回2死一塁で8番打者。このケースで、どんな手が打てるか。ただベンチで見てるだけでいいのか」。答えを求めているわけではないのだろう。成績不振への批判が高まるほどに人を遠ざけたが、本当は人が大好きで、愛してやまない野球の話をしたかった。野村さんらしい問わず語りだった。【秋山惣一郎】





