さまざまな元球児の高校時代に迫る連載「追憶シリーズ」。第25弾は今日11月28日に51歳の誕生日を迎えた吉田剛氏です。

 取手二のキャプテンとして、夏の甲子園決勝戦で桑田真澄、清原和博を擁するPL学園を倒し、日本一に輝きました。

 彼が全力を注いだのは野球だけではありません。ケンカ、バイク、女の子と遊ぶことにも一生懸命でした。

 「メリハリだよ。人生メリハリ」という吉田氏の高校時代に迫りました。恩師の木内幸男氏も、たっぷり当時の思い出を語ってくれました。

 11月29日から12月10日の日刊スポーツ紙面でお楽しみください。

 ニッカン・コムでは、連載を担当した記者の「取材後記」を掲載します。

取材後記

 吉田剛さんとは初対面だった。北新地にあるANAクラウンプラザ大阪のロビーで待ち合わせ、吉田さんが経営するダイニングサロン「T2 KITASHINCHI」まで並んで歩いた。

 「わざわざ東京から来たのか?」。吉田さんが、いぶかしそうに聞いてきた。我々の目の前には、日刊スポーツ西日本本社が入るビルが見えていた。なぜ、すぐ近くにいる大阪の記者ではなく、東京から出張してきたのか。当然の疑問だった。 私は答えた。

 「今回の連載、主役は吉田さんです。でも、この機会に石田さんのことも書きたいんです。私、以前にベイスターズ担当をしていて、石田さんにお世話になりました。だから、この連載に立候補したんです」

 吉田さんは「そうか。石田を知っているのか」と言った。しばらく歩いた後で「あいつのこと、いっぱい書いてやってくれ」と付け加えた。ちょうど、吉田さんの店に着いた。ここから取材は始まった。

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 石田文樹さん。プロ野球界では「石田大也(ともや)」で登録していた。

 彼は取手二で日本一の投手となり、早大に進むが中退した。日本石油を経て88年ドラフト5位で大洋(現DeNA)に入った。現役引退後は打撃投手としてチームに貢献した。そして、08年7月15日、直腸がんでこの世を去った。41歳の若さだった。

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 私は優勝した1998年を含め、計3年間ベイスターズを担当した。石田さんはすでに打撃投手だった。

 いろいろな話をした。構えた取材という形ではなく、いつもベンチ裏などで雑談を交わしていた。

 遠征先で何を食べたとか。ゴルフの話とか。お互い腹のたるみを気にしていたので、ダイエットの方法とか。雑談の合間に、チームの試合の感想なども話してくれた。

 高校時代の話をしてもらった覚えもある。石田さんが優勝投手になった年、私は中学3年生だった。PL学園との決勝戦を夢中になってテレビで見ていた。興味津々でいろいろと聞いた。

 残念ながらメモを残していない。記憶も鮮明ではない。当時は記事にする予定もなく、単なる雑談のつもりだったからだ。もし記事にする機会があれば、聞き直せばいいと思っていた。石田さんなら、いつでも快く答えてくれる。

 まさか記事を書くときに石田さんがいないなんて、想像もできなかった。

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 当時監督だった木内幸男さんやチームメートなど、今回取材に応じてくれた方々は「石田は口べただった」と口をそろえた。

 確かに、私が知る石田さんも雄弁に語るタイプではなかった。

 もし、今回の連載で石田さんを取材したら…と何度も想像した。

 「覚えてないなあ」

 「どうだったっけ?」

 「お前、変なこと書くなよ」

 そんなセリフを口にする姿ばかりが思い浮かんだ。もちろん顔は笑ってる。穏やかな笑みを浮かべている。それ以外の表情は思い浮かばない。

 石田さんから本音を引き出すのは、きっと苦労しただろう。でも、やっぱり話を聞きたかった。【飯島智則】