全国高校野球選手権大会が100回大会を迎える18年夏までの長期連載「野球の国から 高校野球編」。名物監督の信念やそれを形づくる原点に迫るシリーズ2「監督」の第7弾は、興南(沖縄)監督として、10年春夏甲子園で連覇に導いた我喜屋優さん(67)です。

 我喜屋さんは自身が高校3年生だった68年夏の甲子園では、沖縄県勢で初の4強入りを果たしています。社会人時代も活躍し、母校・興南の監督に就任したのは07年のことでした。

 今では、監督、理事長、校長を兼任しています。苦難も乗り越えてきた我喜屋さんの物語を全5回でお送りします。

 2月1日から6日の日刊スポーツ紙面でお楽しみください。

 ニッカン・コムでは、連載を担当した記者の「取材後記」を掲載します。


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 2月に入ると、沖縄はプロ野球キャンプで花盛りとなる。現場で取材を続ける私も、石垣島から久米島に渡って、離島から沖縄本島への旅路をたどる。

 キャンプ取材の合間にひそかに楽しみにしていることがある。その日の仕事を片付けて、白球を追う球児の姿に触れるために、高校のグラウンドを訪問することだ。

 興南高とのお付き合いも10年近くになった。プロに技術ではかなわない。だが、グラウンドから伝わってくる背筋が伸びるような独特の緊張感がたまらない。

 我喜屋監督の存在を、法大出身で、母校の野球部長を務める真栄田聡コーチ(55)は「妥協を許さず、いろんな引き出しをもっている方」という。

 「長い間、北海道にいらっしゃったので、狭いスペースで、いかに実戦に即した効率的な練習をするかを教えていただきました」

 例えば、グラウンドが使用できず体育館での練習を強いられた際、興南はボールを使わずシャドーノックで守備練習を繰り返す。

 まずは場面設定した上で、ノックをしたフリをすると、架空の打球を追いかけ、それを処理し、中継プレーを成立させる。声の連係もある。全員がタオルも持って投げるフリをするから肩も温まるというわけだ。

 しかし、興南はめったに屋内で練習することはない。監督について副部長で亜大出身の砂川太コーチ(54)は「越えたいけど、越えれない山」と表現した。

 07年に興南に帰ってきた我喜屋監督が、真っ先に部員を集めて言ったのは「長靴と雨合羽を買ってきなさい」という注文だった。

 「沖縄では雨期に入るとグラウンドを使わないのが当たり前でした。今思えばぬるま湯につかっていた。監督はそれを許さなかった。今では雨降りでも、合羽と長靴を履いて、ぬれてもいいようにボールにテープを巻いて練習します」

 照明を点灯させた練習も終わりかけになると、保護者が集まってきて息子たちを遠目で見守っている。以前は「どうしてうちの子を試合に出してくれないのですか?」という親もいた。

 我喜屋監督はそこに指導方針の軸を置いていない。だから、そのような親は「ここは修業の場です。レギュラーになることだけにこだわるのならお引き取りください」と告げられる。

 沖縄県勢が初めて甲子園に出場したのは、1958年の首里高だった。当時の沖縄は米軍の統治下にあって、植物検疫法に触れるために、甲子園の土を持ち帰ることさえできなかった。

 あれから60年の歳月が流れようとしている。沖縄の球児たちのひたむきな姿をながめながら、このまま野球ができる平和が続くことを祈りたい。今夜もまた泡盛が腹にしみる。【寺尾博和】