足利工(栃木)は創立122年を誇る、日本最古の工業高校の1つだ。校内の資料館には1934年(昭9)に昭和天皇が施設見学のために訪れた際の写真や、休憩のために用意された玉座が展示されている。足利駅前を通る中央通りから、学校の正門に延びる直線道路は「御幸通り」とも呼ばれる。甲子園出場を決めた野球部は、その道をパレードするのが習わしだ。

 甲子園出場6回を誇る野球部は来年、創部120周年を迎える。1956年(昭31)に、北関東大会決勝で、藤岡(群馬)に1度は敗れかけながら勝った伝説は「足工魂」として受け継がれた。延長15回裏、2死満塁から二塁強襲打を打たれた。だが、サヨナラ負けの危機の中、一塁走者が走っていないのを見逃さなかった。二塁にボールを送りアウト。すでにホームを踏んでいた三塁走者の生還は取り消された。そこから初の甲子園出場を勝ち取った先輩たちの偉業は、代々、語り継がれた。

 1972年(昭47)、足利工3度目の甲子園出場を果たした堀越安則外野手は「私の1つ下には作新に江川がいた。あのホップする球を打つためには『足工魂』は不可欠でした」と振り返る。甲子園出場を決めた夏、作新学院は準決勝で小山に敗れた。江川卓との対戦はなかったものの、打倒江川の精神がチームを鍛えた。8月15日の終戦記念日に、甲子園で沖縄代表の名護と対戦。スタンドのほとんどが相手チームを応援するムードの中、勝利を飾った。試合中に行われた戦没者への黙とうで、落ち着きを取り戻したという。

 そして時代を超え、最後の甲子園出場から30年以上がたった今も、魂は消えない。昨年5月末、足利南との練習試合。相手の適時二塁打の際、一塁を守っていた西尾龍介内野手(当時1年)は、打者走者が一塁を空過したのを見逃さなかった。「踏んでません」とボールを手にアピール。審判からアウトがコールされた。

 その夜のミーティングで、伊藤光一監督は、足利工が初めて甲子園出場を決めた時のエピソードを現役の選手たちに話した。「先輩たちはあきらめなかったから甲子園に行けた」と「足工魂」を伝承した。同監督は高校時代、足利(栃木)の選手として、足利工の石井琢朗投手(現ヤクルトコーチ)とも対戦した。一塁けん制が恐ろしく速かったという。「自分が選手の時、足利工は一番強いチームだった。自分が監督になるとは思いもしなかったけど、伝統校の重みや責任を感じる。知っている者としては、同じユニホームを着てるのはすごいことなんだぞ、プライドを持ってやれって伝えたい」と言った。

 今年のチームを引っ張る沼野井瞭主将も、その重みを受け止める。「(初めて甲子園に行った先輩たちは)サヨナラ負けだとガッカリしないで(試合を)見ていたところに、負けたくないという気持ちを感じる。そういうところを見習っていきたい。先輩たちの歴史から『足工魂』という言葉もできた。それを忘れずに、最後まであきらめずにやりたい」。昨夏の初戦、足利に0-7とリードを許す展開から逆転勝ちを決めた。62年前、古溝寿監督が、選手たちに行った猛ノック。そこから生まれた魂は今も息づいている。(敬称略)

【竹内智信】

87年8月、第69回全国高校野球選手権大会 足利工対鹿児島商工 力投する足利工の石井
87年8月、第69回全国高校野球選手権大会 足利工対鹿児島商工 力投する足利工の石井