仙台育英(宮城)が下関国際(山口)を下し、東北勢として春夏通じて初の頂点に立った。

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仙台育英・須江航監督(39)が、母校を率い、初の「白河越え」を成し遂げた。その脳裏には、01年センバツの風景がよみがえった。高校2年秋からGM(グラウンドマネジャー)に就任し、センバツは記録員としてベンチ入りして、チームは準優勝。目の前で優勝の胴上げを見た悔しさから21年目の今夏、監督としてその悔しさを晴らした。「人生は敗者復活戦」。須江監督が選手たちにいつも言う言葉だ。あきらめずに戦えばいつかチャンスはくる-。その思いを胸に、優勝に導いた。

高校時代のGM経験が指導者を目指すきっかけになった。「チームメートや恩師の佐々木先生にそういう役割をいただいて、教員や指導者になる夢をいただきました」。当時はGMが主将に近い役割を担い、佐々木順一朗前監督の野球を理解し、選手にかみ砕いて説明。練習メニューを作り、チームを引っ張った。その後、八戸大へ進学し野球部マネジャーを務め、卒業後の06年に秀光中に着任。創部間もない軟式野球部の監督に就任した。

中学での指導が、須江監督の原点だ。部員の半分以上が野球のルールも知らない。打ったら三塁に走る選手に驚いた。同僚だった絵菜夫人(39)は「どんな指導が子どもたちのためなのか。それが一番の苦労だったと思います」と当時を振り返る。1つ1つ丁寧に教え、自費で野球道具をそろえ、野球の楽しさを教える方法を模索した。「勉強ができる子が多かったので、何か役割を与えたいと考えていたと思います」。この頃から、選手とともに少しずつデータ分析に取り組み数字を可視化した。秀光中OBで昨年、仙台育英の主将を務めた島貫丞選手(日体大1年)は「野球はこうすれば勝てるんだ、ということを教わった。野球って楽しんだ、と思いました」と話した。

11年に全国大会で1回戦敗退すると、「気合と根性だけでは限界がある」と痛感。全国の指導者を訪ね教えを請い、データ分析も深めた。14年には全国制覇を果たした。

そして18年1月に仙台育英の監督に就任しても、その姿勢は変わらなかった。「基本、野球のことしか頭にありません」(絵菜夫人)。帰宅後も選手や次戦の対戦相手の動画を見て分析。選手たちへの連絡にケア、と深夜まで作業は続いた。選手とともに涙する熱血漢。昨夏、全国優勝を狙えるチームを率いながら県4回戦で敗戦すると「監督である自分の責任だ」と涙を流しながら選手に頭を下げた。絵菜夫人は「でもね、主人はどこか楽しそうなんです。ワクワクして部活に出掛けていきます。そんな主人を私は尊敬します」と笑った。

野球にストイックな須江監督も、息子の明日真くん(8)、娘の恵玲奈ちゃん(5)にはめっぽう甘い。イベントごとだけは絶対に欠かさない。誕生日は必ず一緒にケーキを食べ、クリスマスにはサンタクロースのコスチュームを身にまとった。家族の合言葉は「日本一」。全員で声をそろえて叫び、家族は笑顔で須江監督を試合へ送り出してきた。

19日、絵菜夫人は甲子園に隣接する素盞嗚神社に優勝のお参りをした。明日真くんとともに引いたおみくじは、そろって「大吉」。優勝に導かれた須江監督。絵菜夫人はアルプスから「最高の景色を見せてくれて、ありがとう」と、つぶやいた。【保坂淑子】

◆須江航(すえ・わたる)1983年(昭58)4月9日生まれ、さいたま市出身。小2で野球を始め、鳩山中(埼玉)から仙台育英入学。2年秋から学生コーチとなり、3年春夏の甲子園に出場(春は準優勝)。八戸大(現八戸学院大)でも学生コーチを務めた。06年から仙台育英系列の秀光中野球部監督となり、14年に全国制覇。18年1月から仙台育英に就任。1年目の夏から甲子園に出場した。情報科教諭。

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