夏の甲子園大会で2度全国制覇し、80年代から高校野球を代表する監督として選手を指導してきた日大三・小倉全由監督(65)が、3月末で監督を退任する。9日午後、1年生から3年生の野球部員とマネジャーを集めたミーティングを行い、小倉監督が退任の思いを伝えた。

「俺はこの3月で監督をあがる。1、2年生にははっきり言ってなかった。皆にははっきりこの3月であがると、伝えたかった。どこにも言ってないんだ。この3学年の中で伝えたかった」

昨秋から数回、学校側に退任の意向を伝えていた。同校からは慰留されたが、65歳の定年を迎え高校野球の監督から退く。同校も退職する。定年に伴い身の振り方をどうするのか。去就が公になる前に、その思いを誰よりも最初にまずは選手たちに伝えるんだと、小倉監督はずっと以前から決めていた。後任は小倉監督と同校野球部を26年以上にわたり共に支えてきた三木有造部長(48)が就任する。

小倉監督は「俺のあとは三木先生に監督やってもらう。白窪コーチと、これまでの雰囲気とかわらないから。三木先生も白窪コーチも、俺の考えと同じでやってくれてる。俺に足りなかった分も指導してくれる」と話した。

関東第一で12年間(88年秋から92年11月までは監督から離れての教員生活)、日大三で26年間、計38年間の高校野球監督人生だった。実績もさることながら、グラウンドで選手を鍛えに鍛える一方、寮に住み込み、生徒の日常と向き合ってきた。絆を深め、卒業後も就職や結婚などの報告を受ける、温かみある監督だった。

ここ数年は、長年酷使してきた両ヒザの不調を気にしてきた。「やっぱり自分は、この手で全力でノックをしてこそだと思うんです」と言い、選手とともにグラウンドで汗を流すことを信条にしてきた。両ヒザを除けば体力、気力ともに充実している。余力を残し、後進に道を譲る。

甲子園出場は関東第一で4回(センバツ2回、夏2回)、日大三で18回(センバツ7回、夏11回)。両校含めて22回出場。通算37勝20敗。優勝2回(いずれも夏)、準優勝2回(いずれも春、うち1回は関東第一時代)。

他校の監督からも慕われ、年末の強化合宿では毎年のように指導者が見学に訪れてきた。自分の指導法を分け隔てなく伝え、誰に対しても礼儀正しい人格者として、多くの高校野球指導者に影響を与えてきた。

小倉監督の教え子で、プロ野球に進んだ主なOBは元ヤクルトの近藤一樹、吉田裕太(ロッテ)、山崎福也(オリックス)、高山俊(阪神)、横尾俊建(楽天)、坂倉将吾(広島)、桜井周斗(DeNA)、伊藤裕季也(楽天)、井上広輝(西武)。

◆小倉全由(おぐら・まさよし)1957年(昭32)4月10日、千葉県生まれ。日大三野球部では3年夏は背番号「13」の控え選手。5回戦の城西戦に敗れ甲子園とは無縁だった。日大の学生だった76年秋、日大三高の故小枝守監督(元拓大紅陵監督=19年に逝去)に声をかけられ母校コーチに就く。

79年夏の地方大会を勝ち抜き、同校としては62年以来17年ぶりの甲子園出場を決めた。2年後の81年夏、4回戦で法政一に敗れ、小枝監督とともに解任される。その後、日大三OB、小枝監督の尽力により、その年12月に関東第一の監督に就任。監督生活をスタートさせる。

85年夏に帝京を破り同校初の甲子園出場。87年センバツでは、立浪和義(現中日監督)擁するPL学園に決勝で敗れ準優勝。その夏の東東京大会8強、翌88年も8強で終わると、直後に監督を解任される。そこから4年間はクラス担任、学年主任を務め、野球とは無縁の教員生活を送った。92年12月に同校野球部監督に復帰。94年夏、同校としては4年ぶり、小倉監督としては85年以来9年ぶりの夏の甲子園大会出場を決める。

96年秋、当時の日大三高飯嶋生福(せいふく)理事長から同校野球部再建の要請を受ける。熟考の末、97年4月、母校の監督に就任。99年センバツで日大三の監督としては初の甲子園出場。同年夏の西東京大会も制し、同校としては85年以来14年ぶりの夏の甲子園大会出場を果たした。

関東第一では12年間で春2回(準優勝1回=87年)夏2回、日大三では26年間で春7回(準優勝1回=10年)、夏11回(優勝2回=01、11年)、両校を通算すると春9回、夏13回、計22回甲子園に出場。通算成績は春夏合わせて37勝20敗。

社会科(倫理)教員。家族は妻と2女、孫が1人。座右の銘は「練習は嘘をつかない」。