<アナタと選んだ史上最高物語(2)俊足編>

 ◆史上最高の俊足ベスト10

 <1>藤村大介(熊本工)<2>田中一徳(PL学園)<3>谷木恭平(北海)<4>東出輝裕(敦賀気比)<5>林裕也(駒大苫小牧)<5>鈴木一朗(愛工大名電)<5>弓岡敬二郎(東洋大姫路)<8>大須賀允(前橋工)<8>緒方耕一(熊本工)<8>城友博(習志野)【球場の空気を支配した北海・谷木】

 高校野球を初めて甲子園で観戦したのは、いつだったろうか?

 古い記憶をひもといていたら、1955年の春に行き当たった。準決勝は大阪と兵庫の対決で沸いた。坂崎・大明神が主軸の浪華商と、わが母校となる県尼崎が激突した。エース今津光男と姉が同級生で、アルプス席で応援するのに連れて行ってもらったのだ。5歳だった。

 にもかかわらず、妙に覚えている空気がある。0-0で迎えた終盤、今津が坂崎に適時打されて、1点を失った時のことだ。1球ごとに沸き返っていた喚声が消え、落胆の深い静寂が辺りを包み込む。たった1球で、かくも深く人々を失望させてしまうこともあるのか…。0-1で県尼崎は敗れ、浪華商は決勝でも桐生を倒して優勝した。

 新聞記者になった時、今津は中日から広島、阪急と渡り歩いていた。俊敏極まりなかったショートにも、衰えの影が忍び寄っていた。何度か食事に連れて行ってもらった。「オレな、浪商に行きたかったんや。でも家が貧しかったから公立にした。それでも高校に入った時からプロに行く!

 と決めていたからムチャな練習もした。お前らもしたか?

 それにしても浪商には勝ちたかったなあ」。人それぞれにドラマあり。話を聞けば、その人固有の物語があることを、知った。そんな今津も、もうあの世へと旅立った。

 あの「阪神決戦」の時と、どこか似通っている、と思いながら見たのが63年春の準決勝だ。初優勝を狙う北海が、早実と対戦した。多分、外野席から見物していたのだろう。接戦の終盤、北海の谷木恭平が1点差に迫るタイムリーを打って一塁に出ると「ゴー、ゴー」という声がスタンドから起こった。何を言っているのか、最初は分からなかった。谷木に走ることを促しているのだ、と理解できたのは彼が二塁へ走ってからだ。さらに2球目三盗、そして2-2から本盗!

 微妙なタイミングでアウトとなったが、北海は勢いで逆転勝ちを収めた。ここでも1人の高校球児が5万人を飲み込む球場の空気の支配者となっていた。谷木はこの早実戦で実に5盗塁。大会で9盗塁を記録した。

 私は俊足の基準を、この時の谷木に置いている。そうして甲子園で見た中では、彼を上回る俊足には出会わなかった。東洋大姫路の弓岡敬二郎、PL学園田中一徳の速さが谷木に肉迫したが、塁に出るだけで球場全体の空気の支配者とはなり得なかった。

 もっとも「その後」ということになれば、プロに進んで後に多くの韋駄天が誕生している。愛工大名電のイチローは2年の夏に出てきた時、あるスカウトに「アイツ凄いで」と聞いていたが、俊足を見る機会はなかった。赤星憲広(大府)も速かったろうが、誰かの記憶に残っているだろうか。

 最多得票の藤村大介(熊本工)は3度にわたって甲子園の土を踏んだ。今は巨人の一員。百メートル11秒10と足はめっぽう速いが、「史上最高」の称号の凄みは、希薄だ。やっぱり史上最高の俊足は谷木恭平か。(つづく=敬称略)【編集委員=井関

 真】