98年にヤクルト球団を取材して以来、20年ぶりに契約更改を取材した。ヤクルトの球団事務所は、新橋から青山に移った。新橋の球団事務所では、通路を通りながら球団職員の様子を見ることができたが、レイアウトは一変した。セキュリティーが厳しく、というかメディアが気安くのぞけない構造になった。

そして、何よりも変わったのは、スムーズな交渉と、流れるような会見、そして交渉担当者との推定金額を擦り合わせる、絶妙な答え合わせのやりとり、という流れだった。

下交渉で、おおよその感触が、選手にも、球団サイドにもあるのだろう。球団に顔を出して交渉に入るのは、サインをしに来ましたというシグナルとも言える。しかし、90年代はそんな洗練された交渉はまだなかった。豪快で、その場でいきなりお互いの考えをぶつける戦いの場だった。

そんな場面に何度も出くわした。中でも度肝を抜かれたのは、91年オフの日本ハム担当になりたてのこの季節。その年、最初の契約更改に訪れたのが、当時のストッパー、武田一浩さんだった。1時間以上の交渉の末に、記者室に入ってきた武田(以下敬称略)は、扉を入って3歩も歩かないうちに、若干体が開き気味だったが、ものすごいクイックスローで、持っていたセカンドバッグ(当時はプロ野球選手はほぼ必ず契約更改に持参していた)を、およそ5メートル先、ブラインドが下がっている窓へ全力投球。

いや、その武田の迫力と「がっしゃ~ん」と大音響をたてて、白いブラインドがくしゃくしゃに折れ曲がる様はすさまじかった。あぜんとする5、6人の記者。さらにがしゃん、がしゃんと、音を立てて窓枠にぶつかって揺れるブラインドの余韻に、部屋はとてつもない緊張感に満たされた。

試合中とまったく同じ迫力で、武田はそのまま席につき、たばこに火をつけながら担当記者の質問に、気持ちを落ち着かせるように、時折だまったり、言葉を選んでうなずいたりしながら、徐々に会話が成立していく。極度の興奮状態の武田を、先輩記者はなだめつつも、選手の言い分を吸い上げるように、本心を聞き出し、選手と球団の年俸を巡る激しい攻防を記事にした。

まあ、球団も違うし、時代も変わった、そんなブラインド目がけた全力投球は、手ぶらで会見場に現れる選手が多い中、もう起こる余地はないと思う。ヤクルト球団での選手の表情は穏やかで、理性的で、年俸を巡る喜怒哀楽は随分とまろやかになった。それはもちろん、悪いことではない。選手自身の手応えと、球団の評価に食い違いがあれば、それは契約更改の場所で意見をぶつけ合うことであり、メディアに向けて披露する必要はない。

よくよく観察すれば、明確に金額を口にする選手もいれば、ダウンでサインした選手は「○○%ダウンです」と言って、あとは今季年俸から推し量ってほしいという空気を出す選手もいる。この日、契約を更改したクローザーの石山泰稚投手(30)は「倍増以上です」と口にして、4800万円から、大台に乗ったことを感じさせた。担当記者が「大台ですか」と質問を重ねると、明確に否定せず、1億円に乗ったことを暗に認める空気を醸し出した。

当時の武田はストッパーで41試合に登板し、18セーブを稼いだ。大幅アップが期待された中、自分の考える金額との開きが大きすぎて、記者室のブラインドがかわいそうな目にあった。武田の名誉のために確認しておくが、会見をキャンセルもできたが、明大野球部らしく約束を律義に守り、はらわたが煮えくり返る中で、記者室に現れての「名シーン」ということだった。その事象と、石山の契約更改を比較する気持ちはまったくなく、大切な収入にまつわる選手感情の露出の在り方が、随分とスマートになったと、改めて思うのみだ。

金額に開きがあって、怒りのあまり予定した会見をぶっちぎり、駐車場へ怒りの行進をする選手を、慌てて後ろからダッシュで追いすがったことは何度もあった。

試合とまったく同じくらい大切な年俸交渉を、メディアにさらしたくないという考えも、選手の間にはある。試合での真剣勝負はともかく、年俸をめぐる真剣勝負は公開したくない、ということだろう。応援する選手が、夢のような金額を勝ち取り、その様子を知ったファンは、応援したかいをそこに感じることもあるし、子供にとっては大いなるあこがれにつながる。

ブラインドをへし曲げる契約更改も荒々しく、戦う男を感じさせたし、一連の流れが設定された現在の契約更改の風景も、落ち着いて選手の気持ちを聞く貴重な場面でもある。

国内では、トップのプロゴルファーをのぞき、メジャースポーツにおいてプロ野球選手の年俸は、やはり群を抜いてスケールがでかい。この選手はいくら稼ぐのだろう? それが、もっとも根本的で、ファンが求める情報、そこは、変わらないようだ。【井上真】