プロ野球選手になるのは幼少期、エースか4番という人がほとんどだ。だが、元DeNA投手の進藤拓也(29)は近隣に名をとどろかす神童ではなかった。

秋田県に生まれ、小学2年から軟式の学童野球チーム、峰吉川ファイターズで野球を始めた。投手と捕手を務めた。「1学年約10人、部全体でも30人ぐらい」という協和中学に進んだが「一塁手の2番手で投手の3番手でしたかね」。完全に控え選手だった。

マブチモーターで営業職として働くDeNA元投手の進藤拓也氏
マブチモーターで営業職として働くDeNA元投手の進藤拓也氏

経歴は珍しい。「みんなに言われますね。できるかなという気持ちはありましたが、使ってもらえなかった。みんなレベルはどっこいどっこいぐらいだった」。だが、タダでは転ばない。「逆にそれがあったから、ここまで来られたのかな」と反骨心をかきたてた。

◆エンジョイベースボールのはずが…

高校は近所の西仙北高校に進んだ。夏の秋田県大会では8強に入ったこともない。「中学で補欠で他の高校に行きたかったのですが、試合に出たかったので家の近くの弱い高校に入った」。今度こそレギュラーとしてエンジョイベースボール、というもくろみが外れた。

10年7月、秋田大会の大曲工戦でいとこの深浦寛捕手を信じて投げ込む西仙北・進藤拓也投手
10年7月、秋田大会の大曲工戦でいとこの深浦寛捕手を信じて投げ込む西仙北・進藤拓也投手

入学と同時に、秋田経法大付(現明桜)を8度甲子園に導いた鈴木寿監督が就任。「とても厳しかった。間違えたと思った。楽に、好きに野球がしたかったけど。監督と一緒に入ってしまった。秋田経法大付属が強かった時の練習を1年間していた」。何が幸いするか分からない。つらかったが、素質は開花した。


高校3年生になると最速は142キロに伸びていた。エースとして、夏の秋田大会では40イニング連続無失点。学校創立以来、初のベスト4まで進んだ。人生が変わり始める。

「夏の前に秋田の軟式野球チームから話をいただいていた。草野球じゃないけど、企業野球チームで働かないかという話があって。たまたま夏の大会で勝っちゃって、大学に行くことになった(笑い)」


夏季キャンプを秋田で行っていた横浜商大・佐々木正雄監督に見初められた。「次の試合の子を見にきたようです。たまたま前の試合が自分で取っていただいた」。プロ野球選手を輩出している関東の強豪大学への進学が決まった。「小さいころからなりたいと思っていた。でもなれないだろうとも思っていた」。プロへの道が、おぼろげながら見えてきた。

14年1月、練習始め後の横浜商大時代の進藤投手
14年1月、練習始め後の横浜商大時代の進藤投手

秋田の冬は雪深い。日本有数の豪雪地帯では、2月になってもグラウンドは雪に覆われる。一方で神奈川にある横浜商大では、練習が始まっていた。「卒業前に練習参加して。秋田は雪で練習してなくて、キャンプで肩を壊してしまった」。


神奈川大学リーグでは力を発揮できなかった。「リーグ戦は3勝ぐらい。上にプロに行った投手が2人(岩貞祐太=阪神、西宮悠介=楽天)いたので、中継ぎとか敗戦処理だった」。結果は出なかったが、直球の最速は148キロにまで伸びていた。社会人野球の名門、JR東日本への道が開けた。

◆ドラフト8位での指名に周囲は反対

就職した時点では「プロに行けなくても電車が大好きだった。小学校の時は電車の運転手とプロ野球選手が夢だった。プロに行けなかったら車掌とかがしたかった」。シーズン中は総務部に所属。コピー取りなどの雑用をこなした。オフシーズンは引退後を見越して、駅員、車掌の研修を受けた。池袋駅で制服を着て、駅の案内を務めたこともあった。


社会人からプロ野球に進む選手は、ほとんどがドラフト解禁となる2年目に指名を受ける。最速が153キロにまで伸びるにつれ、気持ちに変化が生まれる。

15年7月20日、都市対抗野球1回戦、三菱重工神戸を相手に投げるJR東日本の進藤拓也投手
15年7月20日、都市対抗野球1回戦、三菱重工神戸を相手に投げるJR東日本の進藤拓也投手

「2年目は本当に結果を出してプロに行きたかった」。大目標である都市対抗予選を目前にして転機が訪れた。「堀井(哲也)監督に『お前のオーバースローの真っすぐでは打たれる』と話をされて」とサイドスローに転向した。


当初は渋った。「都市対抗の予選前だったので結果を残さないと、やっぱりプロということもあったので。最終的にはサイドにしてプロに行けたので、そこは良かったと思います」。希少性という新たな魅力が生まれたことで、ドラフト8位でDeNAから指名を受けた。


「すごくうれしかったですけど、会社の部署の人は結構反対してましたね」。就職人気ランキングでも常に上位に入るJR東日本の安定性は、日本の優良企業の中でも屈指だ。それでも葛藤することはなかった。 「いろんな人が社会人で8位という評価に『プロで試合に出してもらえるかな』とは言っていた。一生に1度だし、行きたい、行こうかなと」。中学では3番手だった投手が、ついに夢の舞台に進んだ。契約金2700万円、年俸750万円(金額は推定)だった。

17年2月、春季キャンプでエイサー体験をするDeNAの、左から尾仲、狩野、浜口、進藤、佐野
17年2月、春季キャンプでエイサー体験をするDeNAの、左から尾仲、狩野、浜口、進藤、佐野

ドラフト8位で念願のプロ入りを果たした進藤だが、初登板から試練が立ちはだかった。


出番はいきなりやってきた。新人年の開幕、ヤクルト戦。2―3と1点リードを許した7回1死満塁で須田幸太投手に代わって、3番手でマウンドへ向かった。打者は中村悠平。初球を左中間二塁打された。「いろんな人に言われるのは『もし満塁を抑えていたら違うポジションにいたんじゃないか』と」。さらに西浦直亨にも右犠飛を許し、塁上にいた走者を全てかえしてしまった。記録上、自らの失点は0だが、ほろ苦いデビューとなった。1年目は12試合に登板し、防御率4・20だった。


2年目は1軍登板がなく、3年目にプロ初先発の機会が巡ってきた。19年4月30日のヤクルト戦。


2回までに4安打2失点したが、3回も続投となった。さらに1点を追加され、2死三塁から村上宗隆を敬遠。2死一、三塁としたが、中村悠平に3ランを浴びた。


プロで初めて対峙(たいじ)し2点二塁打を打たれた中村に、またもたたきのめされた。「苦手意識というか常に打たれているイメージしかなかった」。中村の実弟は、DeNAでブルペン捕手を務める中村辰哉チームサポーター兼チーム付デスク兼ゲームアナリスト補佐。「顔もそっくりで。いつも『お前の兄貴に打たれた』と話していました」。中村兄は昨年の日本シリーズでMVPに輝いた。引退した今では「いいバッターですね。あのバッターに打たれたと言えるのもうれしいかな」と振り返る余裕がある。

16年11月、新入団選手発表会見でDeNAラミレス監督と一緒にポーズをとる進藤
16年11月、新入団選手発表会見でDeNAラミレス監督と一緒にポーズをとる進藤

結局、プロ3年目は5試合に登板し、0勝0敗、防御率9・00に終わった。「スリークオーターですけど、155キロが出ました」と人生で最速をマークした。だが「コントロールが悪かったので(笑い)」と特に注目を集めることもなかった。

◆痛みをこらえて腕を振り続けた結果

4年目の20年は、2軍が主戦場だった。イースタン・リーグでは20試合に登板し、チーム最多の10セーブを挙げた。異変が起きたのは9月13日の楽天戦の後だった。「すごく腫れて、先生は『手術した方がいい』と言ったのですが。1週間ぐらいで腫れが引いて、投げられた」。9月29日の西武戦で実戦復帰した。さらに10月2日のヤクルト戦で10セーブ目を挙げた。


「違和感がありつつ試合で投げていて、試合後に水がたまってしまった。手術するかしないかをトレーナーさんと話し合った。シーズンがあと1カ月ぐらいだから、手術しないで1軍にチャンスがあったら頑張ろうとやっていた」。もくろみ通り、10月10日に1軍出場選手登録された。


登録から数時間後、阪神戦で甲子園のマウンドに立っていた。先発浜口遥大に代わって2回1死満塁で登板すると、糸井嘉男、大山悠輔を連続三振でピンチを断ち切った。勢いに乗ると、4回まで3安打1失点。「プロ5年間で、その甲子園が一番よかったかなというところもある」と振り返る快投だった。


結果とは裏腹に、右肘は限界を迎えていた。「試合後にまた水がたまってしまった」。中3日でヤクルト戦に登板したが、8回2死二、三塁から西浦直亨に3ランを打たれた。「最後は神宮で投げたのですが、だめで。そこから感覚が痛いのか怖いのかというところで」。これがシーズン最終登板となり、11月2日に右肘のクリーニング&ドリリング手術を受けた。

18年2月、春季キャンプのブルペンで失投し悔しそうな表情を見せるDeNA進藤
18年2月、春季キャンプのブルペンで失投し悔しそうな表情を見せるDeNA進藤

プロ5年目の21年は、リハビリ組からのスタートとなった。2軍キャンプでも本隊から離れた別メニューとなり、同時期に手術を受けた今永昇太投手、東克樹投手らとキャッチボールを繰り返した。


「手術をして先生に診てもらって『治っている』と言われた」はずだった。いくら投げても調子が上がらない。「キャッチボールはいいのですが、ブルペンに入ると痛いのもあるし、怖いのもある。体が怖がっているので余計に痛いのかなと」。


実際に腕を振った痛みが大きくなくても、脳が本能的に痛みを避け、動きを抑制するケースはある。不自然に抑制された動きを繰り返すと、患部以外にも負担がかかる。痛みを発症することも少なくない。「一緒に手術した組が早く投げられていて、自分は全然投げられていなくて、体が無理していたのかな」。焦りがあった。


投球スタイルを変えることで、体と折り合いをつけた。「キャンプが終わって4月ぐらいから真っすぐが(腕が)振れないので、ツーシームでごまかしていた。ピッチングフォームを変えつつ」。直球は、腕を最も振る必要がある。肘に負担がかかる。代わりにツーシームを右打者の内角(左打者の外角)に投げた。


ごまかしながら登板を重ねたが、夏になり、気温の上昇とともに球速も上がった。7月27日、東京五輪期間中のエキシビションマッチで1軍に初昇格した。ソフトバンクを相手に1回無失点。「あの時は去年で一番スピードが出た」と最速は147キロまで戻った。だが、続かない。続く同31日の楽天戦では1回無失点も1安打1四球。「なんか違う」という違和感がぬぐえなかった。球速は130キロ台に落ち、またもファームに逆戻りした。

21年8月31日、広島戦の3回途中からマウンドに上がったDeNA進藤
21年8月31日、広島戦の3回途中からマウンドに上がったDeNA進藤

1カ月後、8月の終わりに再び1軍に昇格した。登板2試合目の同31日広島戦(横浜)は荒れた。3回1死一、二塁で4番鈴木誠也を打席に迎えた。「ほとんどツーシームで」死球を当てた。続く坂倉将吾は四球で押し出し、会沢翼には押し出し死球。どうにも歯止めが利かなかった。


「真っすぐで抑えられないので、ツーシームで厳しい内側を狙ってゴロを狙うしかなかった。今まではアバウトに真っすぐでファウルだったりでカウントを稼いでスライダーがあったのですが。真っすぐでファウルが取れないので、ボールを動かして打ち取ることしかできなかった」


元々、豪快なフォームから繰り出す球の勢いで押し切る投球が持ち味で、細かいコントロールで勝負するタイプではない。球威がなくなれば「コントロールが自分になかったので厳しかった」。これが現役最後の1軍登板となった。


10月5日、球団から戦力外通告を受けた。既に5月ごろから予感していた。「シーズン中に、どうしようかなと、いろいろ見ながらやっていたので。区切りはつけやすかった」。後悔もないが、過去の選択において、違う人生を想像することはある。


20年は肘に違和感を抱えながら、手術を先延ばしにした。「振り返った時、あの時早めに手術していたらなと思うことはある。最後1軍で抑えられたこともあるし。プロ5年間でその甲子園が一番よかったかなというのもある。それ以外は、5年できたら十分かなというのもある」。永遠に答えの出ない、想像の世界に思いをはせた。【斎藤直樹】(敬称略)

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