ロッテの背番号17と言えば誰が浮かぶだろうか。

22年現在は佐々木朗希投手。08年から14年までは成瀬善久投手(現BC栃木・投手兼任コーチ)が背負った。


では成瀬の前の17番は―。今も1軍のグラウンドで右腕を振っている。


04年のドラフト自由獲得枠で入団した手嶌智氏(39)は、広報と打撃投手の「二足のわらじ」で12年目を迎えた。(敬称略)【鎌田良美】

◆手嶌智(てじま・さとし)

1982年(昭57)6月16日生まれ、千葉・富津市出身。拓大紅陵から社会人の新日本石油を経て、04年ドラフト自由獲得枠でロッテ入団。09年限りで現役を退き、翌年は打撃投手兼スコアラー。11年から打撃投手と広報の兼任となった。現在背番号は104。


練習中も携帯電話が手放せない。マスコミ対応が仕事だから。同時にバッティングピッチャー(BP)として、打撃練習に登板しなくてはならない。


「選手取材と自分の投げるタイミングが重なりそうだったら、前もって選手に言っておく。投げる順番を変えられるんだったら変えてもらう。そういうのは計算して動きますね」


シーズン中、BP専任のスタッフは試合終了と同時に帰れる。広報兼任だと、そこから取材対応が始まる。コロナ禍前は、12月も毎日のように選手のトークショーや野球教室、後援会イベントに付き添った。自分のトレーニング時間を捻出するのも大変だった。

打撃投手と二足のわらじでチームに貢献するロッテ手嶌智広報(21年12月撮影)
打撃投手と二足のわらじでチームに貢献するロッテ手嶌智広報(21年12月撮影)

「広報向いてないんですよ」と、よく言っていた。


最初はBP兼スコアラーだった。練習で投げて、試合が始まればスタンドでビデオを回した。投手は打たれないように投げるが、打撃投手は打ちやすいように投げる。


サブロー、里崎ら1軍野手は年上が多かった。


「打たれることに関しては、バッピになる前から結構打たれてたんで(笑い)苦ではなかった。ストライクゾーンに入ればいいやと。ただベテランが多かったので、たまに投げた時は緊張しました。福浦さんとか『全然OKだよ』って毎回言ってくれて、ありがたかったです」。


11年、人員補充で広報兼務を打診された。


悩んだ。受けないとクビになるのだろうか。元々マスコミが苦手だった。


「僕みたいな活躍してない選手は、ドラフトの時に一番注目されて、その後(記者が)寄って来なくなる。そういうので1歩引いちゃう部分があって」。決断したのは球団に恩返ししたい思いから。「高い契約金をもらって全く貢献できなかった。その分を返さないと」。

04年12月、ロッテ入団発表で「顔と同様、伸びのあるストレートで」と言った手嶌の顔に手を伸ばす左から木興、竹原、久保、1人おいて大松、青松
04年12月、ロッテ入団発表で「顔と同様、伸びのあるストレートで」と言った手嶌の顔に手を伸ばす左から木興、竹原、久保、1人おいて大松、青松

手本がいた。榎康弘スカウト部長がBP・広報二刀流のパイオニア。動きを見て覚えた。人との距離感は難しい。報道陣に対しても、選手に対しても。


例えば試合中、先発投手やホームランを打った打者の談話がネットニュースに上がる。あのコメントは広報がベンチで聞いて、報道各社に流すものだ。勝ち試合ならいい。打たれた投手や、先輩に話しかけるのは配慮が要った。


「KOされると声を掛けづらい。聞きに行く1歩が踏み出せない。話してくれる人もいればくれない人もいる。外国人だと、アメリカは試合中にコメント聞く文化がないみたいで、なんだコイツって顔をされたり。いろいろ難しさは感じましたね」


戦力外の季節もつらかった。新人の入団時から関わるからこそ、見送る時は人一倍、心が重い。


何が正解か分からない。葛藤しながら仕事を続けた。広報という肩書は付いたが、なりきれてはいない気がしていた。心身のバランスを崩した時期もある。転機は17年秋、井口資仁監督就任のタイミングだった。

22年1月31日、井口監督の会見でスローガンのボードを渡す手嶌広報兼打撃投手(右)
22年1月31日、井口監督の会見でスローガンのボードを渡す手嶌広報兼打撃投手(右)

千葉・鴨川の秋季キャンプを終えて、台湾での親善試合に向かう車内。「榎さんが『俺、来年広報外れるから』って言うんですよ。ええ、じゃあ僕辞められないじゃないですか、どうしようって。でもそれでちょっと、鬱(うつ)が晴れたんですよね」。


予期せぬスカウト転身の報告。ずっと「榎さんの補佐」だったのが「自分がやるしかない」に変わった。向いてないと言っていられなくなった。もちろん、業務には1人で判断できない案件もある。その時は梶原紀章広報室長に相談した。毎日「いっぱいいっぱい」だったのが、次第に「何とかなる」と思えるようになっていった。


「なるようになる」。プロに入った時、好きな言葉を聞かれてこう答えた。


「『なせば成る』じゃないなと思って。僕の人生、そうなんですよ。やってる中でどんどん道が開けてきた。もちろん、これまで関わってくれた方たちのおかげだと感謝しています」


流れに身を任せて、導かれた先にプロ野球選手があった。プロになろうなんてそもそも考えてもいなかった。高校生まで、自分がなるのは漁師だと思っていた。それも、世界最大のカニ専門の。(連載2に続く)


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