下村海翔投手(21=九州国際大付)は卒業後のプロ入りを心に誓い、青学大へ進学した。高卒プロ入りを悩んでいた時期から、安藤寧則監督(46)は東京から九州へ直接出向くなど勧誘。熱意を伝え続けてきた。

安藤監督 「今のままではと進学に切り替わったと僕は理解している。『この選択を絶対に正解にしような』とは伝えました」

「4年後にプロ入り」は恩師との約束だった。

1年春はコロナ禍によりリーグ戦が中止。同年秋にリーグ戦デビューを果たした。いきなり主戦投手として、全5週で先発。2度の完投勝利を含む2勝1敗、防御率1・93を記録した。 華やかに見えたスタートダッシュ。しかしリーグ戦が終わると右肘の異変を訴え、同年12月には右肘クリーニング手術と軟骨再生手術を行った。当初の復帰めどは翌年秋。サプリなど、身体に入れるものからストイックにこだわり早期復帰を目指した。だが軟骨の再生など時間がかかり、完全復帰は予定より長引いた。

1年以上に及んだリハビリ生活。支えられたのは安藤監督の声掛けだった。

「ブレてねえか? 」

大学入学時に立てた「4年後プロ入り」の目標。プロ入りするだけではなく、活躍する所まで考えて過ごせているか。支えられながら、今できることを前向きに取り組んだ。

入学時の最速は149キロ。この期間で身体能力を伸ばし、目標は150キロの大台計測に定めた。ジャンプ系のトレーニングや走り込みなど、シンプルなトレーニングに着手。時に陸上選手の走り方、時にバレーボール選手のジャンプも参考にした。持ち前の「考える力」で数値はアップ。気づけば定期的に行うチーム内の体力測定でも、トップクラスの数値をたたき出すまでに成長していた。

3年春のリーグ戦で復帰し、同年秋までには最速151キロも記録。安藤監督も「とにかくスケールアップしていた」と回想する。中野真博投手コーチ(47)の指導も受けながら、4年時には155キロを計測。同年は2季連続の東都リーグ優勝に貢献し、日米大学野球では大学ジャパンとして大会MVPも獲得するまでに成長を果たした。

そして迎えた23年10月26日。ドラフト会議で阪神から単独1位指名を受けた。地元西宮で小学生時代から憧れた球団。指名の瞬間は「頭が真っ白になった」。 当日の会見で口にしたのは恩師への感謝だった。

「安藤監督が何度も『気持ちはブレてないか』と声をかけてくれたことが、頑張る原動力になりました」

目標をぶらさず、突き進んだ野球人生。下村の挑戦は、甲子園で続いていく。【波部俊之介】(おわり)

【連載1】父の言葉で「決断」

【連載2】恩師が見た「覚悟」

【連載3】クレバーさ「原点」

【連載4】背中押した「言葉」