日刊スポーツの名物編集委員、寺尾博和が幅広く語るコラム「寺尾で候」を随時お届けします。
◇ ◇ ◇
プロ野球選手で“個”が形容されるのは超一流と認められた証拠だろう。フラミンゴ、牛若丸、ザトベック、鉄腕、ガソリンタンク、サブマリン、マサカリ、ゴジラ、振り子、二刀流…。かつて“怪童”と称されたスラッガーがいた。
それが中西太だ。5月11日は「野武士軍団」だった名門・西鉄ライオンズの大砲、中西の三周忌にあたる日だ。日本ハムで初代監督、阪神で指揮をとった。ヤクルト、近鉄、巨人、ロッテ、オリックスでも指導者を務めた。
西鉄の黄金期を代表したバッターは、本拠地の平和台球場でバックスクリーン超えの本塁打を放った逸話をもつ。首位打者2回、本塁打王2回、打点王3回。このほど伝説の大打者が書き残した“中西メモ”が見つかった。
監督論から、選手の好不調を見極める眼力、打撃、守備、走塁術、心理面にも触れている。投打コーチに対しての要望、「カージナルス、ヤンキースの教訓」と題して大リーグの指導法にも及んでいる。
中西の義父にあたる三原脩は“メモ魔”で知られた。巨人、西鉄、大洋、近鉄、ヤクルトを率いて通算監督勝利数2位(1687勝1453敗108分け)で、二刀流の先駆けになった采配は“三原魔術”と言われた。
WBC世界一監督の栗山英樹が“三原メモ”を参考書としながら戦い抜いたことも話題になった。しかし、師弟関係にある門下生で、息子にあたる中西自身がこれほど自身の野球道に対する考えを文言に残していたとは知らなかった。
三原は日本ハムの初代球団社長も務めた。野球人としては異例の「菊池寛賞」を受賞したほどの文化的人物でもあった。中西は「おやじ」と呼んだ三原脩を敬愛していたから、おそらくその姿勢をまねてメモをつけたのだろう。
三原の長女で、中西夫人の敏子から「最後まで病床で日記をつけていました」と教えられて少しだけ読ませてもらった。プライベートの日記は初めてで、自身の野球論を詳細にしたためたメモの存在も打ち明けられた。
中西の名将三原に対する忠義を感じるが、実はたまに人生の伴侶となった敏子が代筆するケースもあったようだ。達筆な字でしたためられた合作。手にとってみると、三原の血を受け継いだ夫唱婦随、二人三脚の温かさがにじむ。
例えば「覚書」とした冒頭は「伝統を大事にする」「先人の恩を忘れるな」「後継者を作る」と書かれている。当時のヤクルトで巧打者の若松勉を「地味だが必死」と評価し、杉浦亨は「夜素振りに参加」、水谷新太郎には「かわいい坊や。すぐに左打ちはどうかと進言」などとメモした。
打撃編では「波があるものの練習はそう時間を必要としない。試合で調子をつかませる」「ノースリーで強打する場合」「腰を開くと腰が入らないは似て非なる」「スランプになったら軽打せよ」と技術論を展開する。
「理論フォームを習得して、それに合致させようとするあまりバッティングポイントを忘れ去って迷路にはまる例が多い」「一人前になったり、古くなったりすると若いプレーヤーに自分の学識見識を誇示して指導する傾向が多い」と指導のヒントもちりばめられる。
初めて公開される中西メモの内容は「バッテリーに対する注文」「ピックオフプレー」「巨人はいかにボールを振らすかという事ばかり考えている。ストレートを使いたいときは時間をかける」と攻守のサインプレー、作戦面にも及んだ。
いくらデータが重視され、アナリストが分析する時代でも、基本形に変わりはないだろう。三拍子そろった“怪童”の異名をとった選手、名伯楽として数々の一流選手を育てた実績はだれもが認めるところで、上っ面でない秘伝の“虎の巻”を読み込んだ気分になった。(敬称略)



