4月上旬に亡くなった曙太郎さんの名は、大相撲史上にさんぜんと輝く。初の外国出身横綱としてだけではなく、同期生でともに横綱となった3代目若乃花、貴乃花の「若貴兄弟」と数々の激闘を繰り広げた。平成の大相撲ブームを担った主役の一人だった。

2メートルを超す長身から繰り出す突き、押しは強烈。褐色の巨体は絶大な存在感を放ったが、内面には日本の心が宿っていた。1993年初場所後に横綱へ昇進すると「横綱の地位とは何か。一から勉強したい」と申し出て、当時の立行司で第28代木村庄之助を訪ねた。

両者を仲介した人物によると何度も足を運び、土俵入りの所作に含まれた意味や最高位の重み、大相撲の歴史などを真剣に聞いた。大きな体を丸め、食い入るような視線でうなずく光景は純粋さにあふれていたという。

教えを忠実に守り、稽古場では若手力士に胸を出した。求道者のように自らの稽古を突き詰めた貴乃花とは好対照。生前、曙さんは「横綱はただ勝つだけではない。下の者の力を受け止め、引っ張り上げるのも大事な仕事だよ」と語っていた。

全盛期は3連覇など年4場所を制した93年。若貴兄弟と3人による優勝決定ともえ戦で連勝した同年名古屋場所が最高の晴れ姿だろう。長い手足で圧倒する取り口は土俵を狭く感じさせ、生前の九重親方(故人=元横綱千代の富士)に「あの超人的な突っ張りを一度でいいから受けてみたかった」と言わしめた。90年代後半は膝や腰の故障に苦しみ、関係者によると、最後は心臓疾患に悩まされて現役引退を決意した。曙さんが「死ぬまで闘っていたい」と強く意識した貴乃花とは通算21勝21敗と互角に渡り合った。

志半ばで親方を辞し、格闘家に転じた第二の人生は不遇とも言えた。だが、数年前まで出席した「同期会」では昔話に心の底から笑っていたという。波乱の生涯の中心には、常に相撲が息づいていた。