名曲やヒット曲の誕生秘話や知られざるエピソードを紹介する連載「歌っていいな」第4回は、二葉百合子さんが歌った「岸壁の母」です。実在の人物をモデルに作られた曲です。息子の復員を信じて6年間、引き揚げ船が到着するたびに港で待ち続けた母の愛を歌いました。終戦から75年、今後も歌い継がれてほしい曲です。97年12月18日付の日刊スポーツに掲載された記事では、モデルとなった母親とも親交のあった二葉さんが明かした秘話を紹介しています。また、その後のエピソードを紹介した記事も合わせて掲載します。

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終戦から26年後の1971年(昭46)に「岸壁の母」は二葉百合子さんによって新しい息吹が吹き込まれた。もともとは終戦後の54年、菊池章子さんが歌った曲だった。浪曲を得意とする二葉さんが、セリフ部分を加え、新バージョンとしてNHKの歌番組で発表した。途端に視聴者から「あの歌は、どこに行けば買えるのですか」と問い合わせが殺到した。時代は高度経済成長の真っただ中。人々の記憶から消えつつあった戦後の、悲しくつらい情景が再びよみがえった。

「岸壁の母」のモデルは、東京・大森に住んでいた端野いせさんだった。戦前に夫と死別し、裁縫の内職で長男新二さんを育て大学にまで進学させた。しかし新二さんは軍人として満州に渡った。しばらくして、いせさんのもとに1枚の「戦死通知」が届いた。息子の死が信じられないいせさんは、復員船が到着すると聞くたびに、東京から京都・舞鶴の船着き場に向かい、復員する新二さんの姿を探し続けた。

いせさんと何度も対面した二葉さんは「いせさんは、終戦から26年以上もたっているのに、新二さんの大好物を冷蔵庫に用意し、新二さんに似合うネクタイがあったら、買ってタンスにしまっていた。新二さんの死を確認した人が誰もいないだけに、ずっと生還を待っていたのです。私も、息子が1人いるだけにもう…」と声を詰まらせ、当時を振り返った。

「岸壁の母」の反響は大きかった。70年代の日本は、日中国交正常化、沖縄返還など新時代へと動きだし、「戦死したとされる兵隊さんが、ひょっこり戻って来るかもしれない」との期待を抱かせていた時代でもあった。二葉さんのもとには、戦死した夫を思いながら女手一つで子供を育てた“岸壁の妻”など、歌に自分の境遇をだぶらせた人々からの手紙が多数届いた。「新二君と同じ部隊にいましたが、誰も新二君の死を確認していません。帰って来ると信じます」という情報も寄せられた。

待ち続けたいせさんは1989年(平元)に、この世を去った。2度とむごい戦争が起きてはならないという願いを込め、二葉さんは公演で必ず「岸壁の母」を歌ってきた。「イントロが流れると、お客さんは背筋を正して聞いてくれる。平和を願う人々の気持ちは変わらない。私も命が続く限り、歌い続けます」。

戦いに明け暮れた20世紀から、21世紀へ伝えなければならない歌である。【特別取材班】

※連載「歌っていいな」は毎週日曜日に配信します。一部、加筆修正しました。


【その後のエピソード】

実は、いせさんの死去から19年後、新二さんが中国で生存していたという報道がありました。日刊スポーツも、2013年の終戦記念日前日の8月14日に「音楽雑学」というコラムで紹介しました。以下が当時の原稿です。

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戦争の悲劇を歌ったヒット曲といえば二葉百合子さんの「岸壁の母」だろう。東京・大森に住んでいた故端野いせさん(享年81)がモデル。女手一つで育てた長男新二さんの「戦死通知」が信じられず、シベリアからの復員船が到着するたびに、東京から京都・舞鶴の船着き場にはせ参じた姿を描いた。

00年8月に、その新二さんが中国・上海で生きていたという報道があった。現地を訪れた慰霊墓参団が身分証明書などで確認したという。同団によると、新二さんはシベリア抑留後、旧満州に移送されたという。その後、放射線技師として上海で働き、現地で結婚した。なぜ帰国しないのかの質問に「自分は死んだことになっている。いまさら帰って、あれだけ有名になった母の顔をつぶすことはできない」と話したという。

その真偽はともかく、それで「岸壁の母」の平和への願いが揺らぐことはない。

代表曲の「岸壁の母」のびょうぶをバックに熱唱する二葉百合子(2011年3月6日撮影)
代表曲の「岸壁の母」のびょうぶをバックに熱唱する二葉百合子(2011年3月6日撮影)