名曲やヒット曲の秘話を紹介する連載「歌っていいな」第32回は千昌夫の大ヒット曲「北国の春」です。1977年(昭52)に発売され、累計300万枚以上を売り上げた昭和を代表する曲ですが、当初、売り上げは伸び悩んでいました。曲にほれ込んでいた千は、周囲を困惑させる、ある作戦に出て、ヒットに結び付けました。

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「星影のワルツ」のヒットから10年、千昌夫はスター歌手として安定期に入っていた。ヒット曲が1曲あれば、10年は人気を維持できた歌謡曲全盛の時代。千も「星影のワルツ」の1曲で、新人から中堅、そして人気歌手へと駆け上がっていた。

その10年後の1977年(昭52)4月、「北国の春」は発売された。のちにアジア全域で海賊盤も含め数千万枚が売れる大ヒット曲だったが、実は当初は、発売から1年を経ても売り上げに動きがなかった。

レコード会社「徳間ジャパン」は、次の新曲制作に動きだした。千も交え打ち合わせが何度も行われた。そしていざ、レコーディングの当日、千から連絡が入った。「腹が痛くって」と言う。慌てたスタッフが急きょ収録日をかえるが、その代替日に千はまた「頭が痛くて」。そして次のレコーディング直前には「疲れている」。そんな日々が延々と続いた。

当時をよく知る徳間ジャパンでプロデューサーだった長谷川喜一さんは「僕は直接のディレクターじゃなかったけど、もう大変でしたよ。ドタキャンですからね。スタッフはカンカンでした」と思い返す。千が招集に応じてレコーディングに来たのは、語りの歌の「めざしのコンチェルト」、北島三郎との競作の「与作」など、いわば企画曲ばかりで、歌手千昌夫としての勝負曲ではなかった。なぜか「北国の春」以降、新曲のレコーディングを拒み続けていた。

営業本部本部長だった江田(こうだ)幹朗さんは言う。「新曲をレコーディングすると発売日が設定され、営業が動きだし、スケジュールが決まってしまう。千さんはそれが嫌だったんです。その前に、どうしても『北国の春』をヒットさせたい、という気持ちが強かったのです」。

千は当時、大小さまざまな公演を全国で年間約250本こなしていた。江田さんの証言を裏付けるように、公演先では、レコード会社の営業所に飛び込み、自ら「北国の春」を売り込んでいた。営業所のない地方では、レコード店の店頭にのぼりを立て、客を集めてイベントもやった。それは安定期に入った歌手の行いではなかった。

千は悟っていた。年間250本の公演をこなし、全国各地の会場の反応に直接触れ、「『北国の春』は間違いなくヒットする」と確信していたのだ。

その時が来た。発売から2年を超えた頃から有線放送のリクエストが急増し、レコード店から追加注文が相次いだ。そして平成の時代には日本の歌謡曲のスタンダードから、アジアを代表する名曲になった。長谷川さんは「千さんは独特の嗅覚で感じていたと思います。『星影のワルツ』があまりにも大きく、それに追いつける楽曲は『北国の春』しかないことを。ヒット1曲で10年食える時代でしたが、千さんにとって『星影のワルツ』の余韻を消すまでに10年かかったということです」と話した。

のちに千は、長谷川さんや江田さんに「実はあれはわざとエスケープしたんだ」と告白もした。

ちなみに岩手県出身の千が歌う「北国の春」は、東北、北海道方面のイメージが強いが、実は、作詞したいではくさんは、自分の故郷である信州(長野県)をイメージしていたという。【特別取材班】


※この記事は97年12月27日付の日刊スポーツに掲載されたものです。一部、加筆修正しました。連載「歌っていいな」は毎週日曜日に配信しています。