プレーバック日刊スポーツ! 過去の10月2日付紙面を振り返ります。2001年の1面(東京版)は、落語家の古今亭志ん朝さんが死去したことを伝えています。

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 古典落語の名手として活躍した落語家の古今亭志ん朝さん(ここんてい・しんちょう、本名美濃部強次=みのべ・きょうじ)が1日午前10時50分、肝臓がんのため都内の自宅で死去した。63歳だった。今年8月に病院で検査を受け、末期の肝臓がんと診断された。名人として名高い5代目古今亭志ん生(享年83)の二男として生まれ、サラブレッドとして注目された。テレビやラジオでも活躍する一方、寄席の高座や独演会にこだわり続けた。30代からささやかれ続けた6代目志ん生の名跡襲名は、実現しなかった。 

 志ん朝さんは聖子夫人(58)ら家族と5人の弟子に見守られながら、静かに息を引き取った。

 関係者によると、今年7月下旬の北海道巡業でかぜをひき、8月13日に都内の病院に入院。精密検査で、末期の肝臓がんと分かったが、同20日まで浅草演芸ホールでの高座があり、病院から通った。高座で顔色は悪く、本人も「声が出なくなってきたので、迷惑がかかるだろうか」と気にしたが、休まなかった。

 高座を終えた同23日、都内のがん研究会付属病院に転院する際、聖子夫人ががんであることを告げた。末期までとは言わなかったが「あっ、そうか」と淡々と受け止めたという。この時、弟子たちだけに事実が伝えられたが、周囲は持病の糖尿病の悪化かと思っていた。

 9月23日に、病院から帰宅を勧められ、自宅に戻った。点滴も外し体力は日に日に弱くなったが、大好きな日本酒は楽しんだ。この日午前8時に容体が悪化、最後は眠るようだった。

 志ん朝さんは、自宅和室の布団で静かに眠っていた。この日夜、落語協会会長の三遊亭円歌(72)、めいの女優池波志乃(46)中尾彬(59)夫妻ら、弔問客が次々と訪れた。

 父は志ん生、兄は10代目金原亭馬生(享年55)と、なるべくしてなった落語家と思われがちだが、外交官か歌舞伎俳優が夢だった。大学受験に失敗後、父から「噺(はなし)家になれ。扇子1本でどこだってメシが食えらあ」と勧められ、押し切られた。19歳で父に入門。父の最初の高座名「朝太」で前座、わずか2年で二ツ目、5年で真打ちに昇進。24歳は当時の落語協会最年少真打ちだった。親の七光に決して頼らなかった。

 古典落語に精進する一方、テレビ、ラジオで活躍した。立川談志(65)三遊亭円楽(68)橘家円蔵(当時月の家円鏡=66)といった当代の人気者と並んで「四天王」(円蔵の前に故春風亭柳朝で四天王といわれた)と称された。三木のり平さんに認められ、役者としての評価も高かった。テレビ出演も多かったが「私は寄席が本業ですから」と言い続けた。

 「老松(おいのまつ)」の出囃子で粋(いき)に登場し、天性の明るさとリアルな人間描写、スピード感あふれる口調で、古典落語の登場人物に血が通った。「噺に新しい息吹を吹き込むつもりで、毎日が修業です」。名横綱双葉山と飲み比べしてぶっ倒れたという、破天荒で天衣無縫の名人志ん生とは違い、志ん朝さんはち密で完ぺきな話芸を目指した。若手を育てるために「二ツ目勉強会」も開催した。

 後輩たちから「朝(ちょう)さま」と敬意をもって呼ばれ、だれもがその才能を認めたが、志ん生の名跡は継がぬまま旅立った。

 ◆古今亭志ん朝(ここんてい・しんちょう)

 本名美濃部強次(みのべ・きょうじ)。1938年(昭13)3月10日、東京生まれ。5代目古今亭志ん生(ここんてい・しんしょう)の二男。兄は10代目金原亭馬生(きんげんてい・ばしょう)。独協高卒。大学受験失敗後の浪人中に父の勧めで落語家を目指す。57年に父に入門し、古今亭朝太で初高座。59年に二ツ目、62年に真打ちに昇進し、志ん朝を襲名。得意演目は「火焔太鼓」「愛宕山」「三枚起請」「文七元結」「お直し」「強情灸」「船徳」「明烏」など多数。同年に東映「歌う明星・青春がいっぱい」で初映画、芸術座「寿限無の青春」で初舞台。63年からフジテレビ「サンデー志ん朝」やラジオ番組の司会も務めた。ふりかけ「錦松梅」やサントリーモルツなどのCMにも出演。72年に芸術選奨文部大臣賞、75年に放送演芸大賞、80年にゴールデンアロー芸能賞を受賞。96年に落語協会副会長に就任した。日劇ダンシングチームに在籍していた聖子夫人と69年に結婚。

※記録や表記は当時のもの