ジャニーズ事務所社長のジャニー喜多川氏(享年87)は、1962年(昭37)の創業以来、数多くのタレントを世の中に送り出し、日本でのエンターテインメントの創出に力を注いできた。タレントの売りこみも自ら行い、担当記者にもいつも熱く語ってきた。そんなジャニー氏について、歴代のジャニーズ事務所の担当記者たちが悼んだ。

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プロ野球金星スターズ(後の大映ユニオンズ)のマネジャーだった父を持ち、大の野球好きで知られるジャニー喜多川さんは、“芸能界の正捕手”だった。

ジャニーズ事務所初の所属グループである初代ジャニーズは、ジャニーさんが監督をしていた野球チームのメンバーから誕生した。その後もジャニーズで野球大会を開催したが、特に投手の制球に対しては厳しかった。若かりし頃、選手としては捕手だったからだ。

「キャッチャーやってたんですよ。誰もやらないから、しょうがなく。ファウルチップは全部自動的に捕ってましたよ。フォアボールやデッドボールを出すピッチャーは許さなかった」

一方の打撃は「ホームランは打たないけども、好きなところに打てました。それだけは才能ありましたね」という。冷静に戦況を見極め、チームメートに指示を送る視野の広さや、広角に打ち分ける技術は、多くのタレントを手がけたプロデューサー業につながる。

ある時、取材中にジャニーさんの電話が鳴った。別の芸能事務所の関係者からの折り返しだった。「ああ、●●さん。間違い電話なんですよ。すみません。失礼いたしました。またよろしくどうぞ」。電話を切ると、ガラケーから買い替えたばかりだというスマートフォンを持って、「僕には、使い方が難しくてねぇ」とチャーミングに笑った。

業界内の交流を欠かさず、常に低姿勢。捕手出身らしい、不世出のプロデューサーだった。選手時代と違うのは、後々になって本塁打を量産したことだろう。【横山慧】