伊勢谷友介(44)が27日、インスタグラムを更新し、21日に亡くなった異母兄の山本寛斎さん(享年76)を悼んだ。

伊勢谷は、27歳の頃の山本さんと自らの写真をアップした。その上で「兄、山本寛斎が永眠しました。写真は僕が大好きな寛斎さんの写真。寛斎さんも僕も、共に27歳の頃の写真をコラージュしました。1971年、独立して株式会社『やまもと寛斎』を設立した頃。僕は2003年、初監督作品『カクト』の公開を終えた頃。」とつづった。

伊勢谷は2月に急性骨髄性白血病と診断され、入院した山本さんの病床を訪ねた時の様子も明かした。

「寛斎さんが病床で、最後に僕に聞いた事。『俺の生き方、どうだ?』僕は慌てて『凄いです。世界のファッションに早くから挑戦して、イベントの演出家として大きなショーを現実にしたことも。』と。寛斎さんは満足気に小さく頷いた。。。」

伊勢谷は山本さんと自らの関係性についてもつづった。

「僕が物心ついた頃には、寛斎さんはファッションの分野で世界を相手に正に『歌舞いて』いた。そんな兄の存在は高校生の僕にとってメンターに変わった。NHK『わたしはあきらめない』で山本寛斎は新たな挑戦であったアートイベントの演出家として、諦めない挑戦の姿勢を、僕に強烈に印象づけた。VHSのテープを何度も観た。『世界基準でやりたい様にやる』寛斎さんのその姿勢は、当時『二足の草鞋』と揶揄されながらもREBIRTH PROJECTと、俳優業を兼業する当時の僕のメンタリティを支えてくれた」

伊勢谷は、その上で山本さんへの思い、そして自らの家計への思いをつづった。

「大学生の頃、僕は『兄になりたかったんだ』と思う。勿論寛斎さんは知らないし、そんな事を言う気もない。寛斎さん自身だって、僕と同じ様に、自分に流れる山本家の激しい血筋を社会で沸騰させる事で精一杯だっただろうから。だから、背中を見てた。父と過ごした記憶のない僕には、それが社会を生きる大人の姿だった。その激しさの反面、寛斎さんは若い頃から家族を持ち、あまりにも優しく、おおらかに家族を支えてくれたと、娘の未来ちゃんが話してくれた。寛斎さんの弟によると、私達の父は『とんでもない人』だったらしい。その反面教師だったと言っていた」

伊勢谷は12年に日刊スポーツの取材を受けた中で、映画監督を志したのは東京芸大1年のころで、日大豊山高から芸大への進学を決めたのは、山本さんの影響だったと語っている。

「最初は洋服をやりたかったんです。山本寛斎という異母兄がいて、彼の影響で洋服をつくるのに執着していて。そこで一番の大学に入りたかった。それまでの人生はずっと中の上ぐらいにいたから、初めて1番を目指してトライしたんです。ただ大学に入ってからは、洋服は他人のコーディネートで完成するのに、僕の作品をグチャグチャにされるのが嫌になってしまって。デザイナーとして破綻していたんですね。そんな中、フランシス・コッポラ監督の『ドラキュラ』を見て映画監督を志しました」

伊勢谷は「生前寛斎さんは『葬式は明るく』『墓はいらない』と言っていたらしい。兄弟なんだな、そんなところも僕と同じ考えだ。やりきる人生、命を使い切る人生。最後までカッコ良かったです」と異母兄の山本さんと考え方が通じる部分があるとつづった。その上で「寛斎さんの死は、これからの自分に新たに喝を入れられました。あなたの血は、僕の中に生きてます。『世界基準でやりたい様にやる』あなたに負けず、僕は『すべての人が容易く生きれる社会』を現実にしたいです。まだまだ僕のイスピレーションの源でいてください。ありがとうございました」(コメントは原文のまま)と感謝した。