春の叙勲で、歌手森進一(73)が旭日小綬章を受章した。同章はさまざまな分野において、顕著な功績を挙げた人が受章する。

森は歌手生活55周年を迎えた。昭和、平成、令和と、その比類なきハスキーボイスで人々を魅了し続けている。デビュー曲「女のためいき」から、「花と蝶」「年上の女」「港町ブルース」「おふくろさん」「襟裳岬」「さらば友よ」「冬のリヴィエラ」「北の蛍」など数々の大ヒットを放った。歌手活動だけでなく、85年には難民の子供たちの支援などを目的にした「じゃがいもの会」を立ち上げ、社会福祉活動も積極的に行ってきた。

森は受章に際したコメントで、応援してくれたファンや関係者に心から感謝した。そして「亡き母にもこの喜びを感謝の気持ちとともに伝えたいと存じます」とつづった。森の偽らざる思いである。

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小学校4年の時に両親が離婚した。父親のギャンブル癖などが理由だった。妹と弟がいた。弟はまだ小さく、森がおむつを替えた。病弱だった母は子供たちを育てるために、やれる仕事はなんでもした。それでも生活保護を受けざるを得ない日々が続いた。森は家計を助けるために、毎朝4時に起きて、牛乳配達と新聞配達を掛け持ちした。森は母に「大きくなったら、お母さんに大きな座布団を買ってあげるからね。お母さんはそこに座って、なんにもしなくていいんだよ」と話した。森は本紙取材に「(両親が離婚した)その時から、僕は4年生じゃなくなった。自分が1日も早くなんとかしなくてはという意識を持った」と明かしたことがあった。

中学卒業と同時に、調理師になって一家を支えると、当時住んでいた母の故郷・鹿児島から大阪に向かった。板前の修業をした。しかし薄給で仕送りできず、仕事を転々とした。そんな時、母から手紙が来た。「土を掘っても、最初は泥。掘り続ければ、やがてはきれいな水が泉のように湧いてくる」。焦らず、1つのことをじっくりやりなさい、という教えだった。森は心機一転、上京した。中華料理店で住み込みで働いている時に、転機が訪れた。

応募したのど自慢で優勝し、バンドリーダーで音楽家のチャーリー石黒氏(故人)にスカウトされたのだ。レコード会社に売り込みに連れて行かれ、部屋を出て待っていると「チャーリー、だめだよ、あんな声じゃ」という会話が聞こえて来た。森は「だめならそう言ってください。鹿児島では家族も苦労しているし、親孝行もしたいから」と言った。するとチャーリー石黒氏は「そしたらバンドマンやるか」と言った。森は「バンドマンやるために来たわけじゃない」と断ると、同氏が1曲つくってくれた。

それが後に作曲家・猪俣公章氏(故人)らの手によるデビュー曲「女のためいき」(66年)だった。同じような独特のハスキーボイスで、同時期に「恍惚のブルース」でデビューした青江三奈(故人)との相乗効果でヒットした。しかし、そのハスキーボイスと歌詞にある「ア、ア、ア、ア~」というため息が「扇情的」という理由で、一部で放送禁止曲に指定された。森はかつて「だから『ア、ア、ア、ア~』ではなく『ア~ア~ア~』と切らないで歌っていました(笑い)」と明かした。

歌謡曲大全盛の時代、森の人気は急上昇した。68年に「花と蝶」でNHK紅白歌合戦に初出場した。翌69年には2回目の紅白で「港町ブルース」で白組トリを務めた。対戦相手は、大トリの女王・美空ひばり。不動の人気歌手となった。

順風満帆の歌手人生で、最大の苦難が襲った。73年2月24日早朝、母が自殺した。47歳だった。そのころ、森は熱狂的な女性ファンから結婚不履行などで訴えられていた。母は、かつて自分がその女性に親切にしたことで、誤解を招いたことを苦にした。すべて女性の狂言だった。森が全面勝訴したのは、母の死から5カ月後だった。森はかつて「息子を応援してくれることはうれしいことで、お茶を出したりして、それで女性も勘違いして。(母は)息子に責任を感じたのかもしれませんね。人生は学校だと思っているんです。いいことも悪いことも、現実にあることは本当なんですから。それがウソでも。時間がたって真実が分かっても、もうその時は何の価値もない。それも、学校の中で学ぶということだと思うんです。子供たちにもよく言うんです。今、起きていることが本当なら、それを受け止めなくてはならない。それに対して腹を立てたりして、間違いを起こしてはいけないと。今も学んでいます」と話した。

森は代表曲「おふくろさん」(71年)を歌う時、いつも血管が浮き出るほどの熱唱をする。この曲は母が生前、森と一緒に作詞家・川内康範氏(故人)の事務所を訪ね、「進一をよろしくお願いします」とあいさつしたことから生まれた。川内氏は自身の書で「その姿に、私はすでに他界していた母の面影を重ね合わせていた。それがきっかけでこの作品はできた。(略)私は私の母と森君の母から、よいプレゼントをいただいたことを感謝している」とつづっている。

これが受章に際し、母に感謝した理由である。

母が亡くなった翌74年、森は吉田拓郎が作曲した「襟裳岬」で第16回日本レコード大賞を獲得。そして同年の紅白歌合戦で初の大トリを務めるのである。母の死を乗り越え、森は名実ともに歌謡界に君臨する大スターとなった。

歌手生活55周年記念曲「昭和・平成・令和を生きる」は、自ら作詞・作曲した。今を生きる人々へのエールであり、そして自らへのエールでもある。

<歌詞>思い通りに 行かない人生 悔やんでみても 仕方ない…涙あれ 笑いあれ 癒しあれ 我が人生に

【笹森文彦】

 

◆受章のコメント全文

謹啓 春陽の候 皆様には益々ご清祥のこととお喜び申し上げます

さて 私こと この度 令和3年春の叙勲に際しまして はからずも旭日小綬章 受章の栄に浴し身に余る光栄と感激致しております

昭和41年に歌手デビューし 55周年を迎えた記念の年にこのような素晴らしい栄誉を賜ったこと これも偏に永年にわたり応援してくださったファンの皆様をはじめ 私を支えてくださった全ての皆様のお陰と 心より感謝申し上げます

そして 亡き母にもこの喜びを感謝の気持ちとともに伝えたいと存じます

この栄誉を励みとし 今後も一層の精進を重ねて心に響く歌を唄い続けて参りますので 変わることなきご芳情を賜りますようお願い申し上げます 謹白

   (原文のまま)

◆森進一(もり・しんいち)本名・森内一寛(かずひろ)。1947年(昭22)11月18日、山梨県生まれの鹿児島県育ち。「襟裳岬」の日本レコード大賞のほかに、「港町ブルース」「おふくろさん」で同大賞最優秀歌唱賞を受賞。NHK紅白歌合戦は48年連続出場し、大トリ5回。「襟裳岬」の吉田拓郎を始め、長渕剛、井上陽水、松山千春、小室哲哉ら数々のアーティストから作品提供を受けている。女優の故大原麗子さん、歌手の森昌子さんと結婚歴がある(ともに離婚)。長男はロックバンドONE OK ROCKのボーカルTaka、三男はロックバンドMY FIRST STORYのHiro。趣味はゴルフ、釣り。167センチ、血液型O。