東京五輪も今月8日に閉会式を迎え、24日にパラリンピックが開幕した。

東京五輪で一番印象深かったのが、卓球混合ダブルスで水谷隼(32=木下グループ)伊藤美誠(20=スターツ)組が金メダルを獲得したことだ。元“水谷番記者”として誠にうれしい。

今から14年前の07年に水谷番記者を務めていた。そもそもは日刊スポーツが、09年に横浜で開催された世界卓球選手権のオフィシャルペーパーとなったのがきっかけだった。まだ、五輪メダリスト誕生前だった頃。ブームアップするために07年4月から卓球の特集面をつくり、選手たちのコラムを連載することになった。

試合スケジュールとは全く関係ない連載とあって、スポーツ部の記者だけではカバーしきれない。そこで「福原愛ちゃんは子供の頃からワイドショーで取り上げられていたから、お前がやれ」と芸能記者もどきの当方に、福原愛選手の担当が回ってきた。そして、もう1人の担当選手が、当時は青森山田高からドイツに渡りブンデスリーガのデュッセルドルフで戦っていた水谷準選手だった。

“愛ちゃん番記者”は海外遠征も多い福原選手を成田空港での出入国の際にインタビュー。競技の話よりもお気に入りのハンドソープなど身近な話を聞いて、外国人向け日本のお土産店で買った扇子やこいのぼりを持ってもらって撮影。楽しいものだった。

大変だったのが時差のあるドイツの水谷選手の電話取材。まだ、10代で言葉もなかなか通じないヨーロッパで苦闘する声が聞こえてきた。それでも、こちらのつたない質問に丁寧に答えてくれた。

07年4月7日付の第1回のコラムで、水谷選手はホームシックになるときもあると明かしてくれた。以下は記事を引用しよう。

「そんな時に思うのは『日本でもっと卓球が人気があれば。日本にプロリーグができれば』ということです。だから、夢があるんです。自分で頑張って、日本に卓球のプロリーグをつくる、と」

その夢は18年にスタートしたTリーグで実現した。五輪では16年のリオ五輪で男子団体銀メダルと男子シングルスで銅メダル、そして今回の混合ダブルスで日本の卓球界に五輪史上初の金メダルをもたらした。

ここ数年は目の不調が伝えられ、東京五輪に出場できるのか心配していた。それがサングラスをかけて出場、3種類目のメダルとなる最高の金メダル獲得。

7度も相手にマッチポイントを握られた準々決勝、2ゲームを先取された決勝。いずれも見ているのがつらくなって、試合途中で「よく頑張ってくれた。水谷は力を出し切ってくれた」と自分を納得させようとした。

だが、水谷選手と伊藤選手は、ギリギリのところから驚異の逆転劇を見せてくれた。30日に定年を迎える記者だが、水谷、伊藤組のように最後まであきらめず頑張ってみようと勇気をもらった。【小谷野俊哉】