伝説のご当地ソング「なぜか埼玉」で知られる歌手さいたまんぞう(72)が25日、東京・浅草の「音のヨーロー堂」で40周年記念ライブ「さいたまんぞう ザ・リさいたま」を開いた。

オープニングで直立不動で「なぜか--」を熱唱した、まんぞうは「よくぞ2コーラス、歌詞を忘れずに歌えたもんです。20周年の時に大々的にやって完全燃焼して、今はやる気も髪の毛もなしです」と話した。

同曲はドラマー、バンドボーイ、ボーヤ、コーラス漫談、野球の審判などを経て80年に「斎田萬蔵」名義でリリース。翌81年にタモリ(76)がニッポン放送の深夜放送「オールナイトニッポン」で紹介したことからから火がつき大ヒット。19年には映画「翔んで埼玉」の挿入歌に、本人の知らないうちに使用されて話題を呼んだ。

2曲目は88年にリリースした「津軽海峡冬元気」を熱唱。石川さゆりの「津軽海峡冬景色」とは似ても似つかない曲だが、リリース当時は2カ月で放送が取りやめとなった。昭和天皇の病状が悪化して「元気」という言葉が自粛させられた。「発売2カ月でだめになった曲です。もう2度と聞くことはないと思います」と言いながら激しい振り付きでシャウトした。3年前に心房細動を発症した、まんぞうは「僕は医者にあまり激しい運動はしないように言われてるんです。芸能人ですけどマイクを持ってステージで死にたくない。僕は野球の審判をしている最中にそのまま逝きたい」と話した。

ステージ上に、このライブを企画した娯楽映画研究家・佐藤利明氏が登場。さいたまんぞうの軌跡をなぞった。佐藤氏は「いつの時代も、まんぞうさんを面白がる人がいる。他人との距離感が絶妙」と話して、そして「僕たちは『もうひとつの二・二六事件』と呼んでるんです」と、1981年(昭56)2月26日午前2時40分前後にタモリがニッポン放送「オールナイトニッポン」のコーナー「思想のない音楽会」で「なぜか埼玉」をオンエアした音源を紹介した。

タモリは「さいたまんぞうという人が歌っている。『お父さんが飲み屋から持って帰ってきた』と送られてきた。実に軽薄というか、絶対テレビに出たら駄目というか」と話して電波に乗せた。

まんぞうは「アイドルで『友達が履歴書を送ってくれました』というのをうそをつけと思っていましたが、僕は何の運動もしていませんよ」と当時を振り返った。

その後は、ゲストのSofi、グレート義太夫が登場。義太夫は「僕がまんぞうさんと初めて会ったのは、芸能の場所じゃなくたけし軍団の神宮の野球。審判をやっていました」。まんぞうは「たけし軍団と銀座のナイトクラブチームの試合に行った。審判で行ったんだけど、クラブのチームに人が1人足りなくて、サードを守った。5-4-3のダブルプレーを2つやってね。殿(ビートたけし)が『まんぞうさん、野球うまいね』って言ってくれた。殿がスカウトしてくれたんだと思う。あの時『たけし軍団に入れてください』とひと言言っていれば、たけし軍団のチームに入れて、人生も変わっていただろう」と振り返った。

その後は1987年に川島恵とデュエットした「東京カントリーナイト」を披露。OL兼シンガー・ソングライター天元(あまもと)ふみが登場して、まんぞうの言葉をもとに作った「人生ナメたら苦かった」を2人でデュエット。

<歌詞>人生意外と甘かった だから人生なめちゃった だけどなめたら苦かった

と、まんぞうの人生を歌い上げた。天元は「まんぞうさんに出会って『人生なめちゃった』と言われて作りました。すごい人です」と話した。

その後は「はくつる号は故郷へ」「原発・アウト!」「なぜか埼玉2001 ユーロビートバージョン」を披露。得意の審判パフォーマンスを披露して拍手を浴びた。

2時間半のライブを終えた、まんぞうは「去年からコロナ禍で営業が全然なくなって苦しかったけど、今日はとっても楽しかった。これからの夢は、高校時代に憧れた甲子園の始球式で審判を務めること」と話した。

そして「人生をなめちゃって、60代で交通誘導員のバイトを3年間やったりもしたけど、歌手をやめようと思ったことは1回もない。仕事は87~91年くらいが絶頂だった。今思えば『愛人と仕事は調子のいい時に2番手を探しておけ』だね。4年間で稼いだお金はパチンコと風俗を使っちゃいました」と振り返った。

◆さいたまんぞう 1948年(昭23)12月9日、岡山県美咲町生まれ。津山基督教図書館高卒業後、上京。グループサウンズのバンドボーイ、俳優浜畑賢吉の付き人を務める。80年に発売した「なぜか埼玉」が81年にヒットし、さいたまんぞうを芸名に。その後、司会、リポーターとして活動。中学、高校時代は野球部。独身。174センチ、68キロ。血液型O。