多発性骨髄腫と闘う漫才師、宮川花子(67)が24日、奈良県生駒市の「たけまるホール」で、1月31日に発売した闘病記「あわてず、あせらず、あきらめず」の出版記念講演会を行った。闘病後、単身での講演は初めて。講演じたい約4年ぶりだったが、予定の30分を10分近くオーバーするなど、花子節は健在だった。

「ほんまはさーっと歩いてきたかったけど、リハビリしすぎて腹筋とおしりが筋肉痛でね」

車いすながら、350人で埋まった客席中に響く声で、がっちり“つかんだ”。今年初めに寛解状態となってから、最近は週1回から月1回の化学療法へ変わっており、ちょうど先週に抗がん剤投与を終えていた。体調良好も、むくみなどが出る時期。それでも、達者な口は衰え知らずだった。

19年3月、寛平マラソン出場(12キロウオーキング)で異変を感じ、同6月に救急搬送され、その先で病気が判明。化学療法などを経て、いったん再発しながらも寛解まで届いた流れを花子節で説明。夫の宮川大助(72)を「介護男子、ようやってくれてる」と持ち上げながらも、失態を暴露。

「こないだ風呂でこけて、大助君が車いすもってきてくれたけど、乗ろうとしたらストッパー外してて(ぶつかり)指切って、大流血。どこ痛い? 聞くから『指や!』言うたった。ほんま、私の病気の70%ぐらいこの人のせいやわ」

花子流のしゃべくりで、闘病、リハビリ生活を笑いに転化し、会場をわかせ続けた。

入院当初、首から下が動かず、リハビリを経てじょじょに動くようになっても、手が不自由だった。

「右手で字を書こう思うても、名前も書かれへんねん。なんでや? 宮沢りえって書くだけやのに」

会場で爆笑が起こると「え? なんで、宮まで一緒やん」と笑いをかぶせていく。東日本大震災のボランティアをともに行ってきた仲間が、闘病から出版までの間に亡くなったことを伝え、仲間が作った歌をアカペラで歌う場面もあった。

大助が「体力持つかな」と不安に思っていた心配は杞憂(きゆう)に終わり、当初予定から10年延長トーク。その後、休憩をはさんで、大助と2人でしゃべり続けた。

大助が「家でずっとおって、口が重くなって」と言うと、花子が「前からそうやん」とピシャリ。

1人での講演会は、しんみり話に笑いを交えていく、まさしく“緊張と緩和”スタイルで進め、大助とのトークは夫婦漫才さながらの掛け合い。多彩な話術も健在で、言霊は実現するという流れから、大助が「最近は、羽生結弦言うてんねん」。すかさず花子が「それは合うてるわ。しゃべったら滑るやん!」と返し、わかせた。

花子は、昨年12月19日に今回と同じたけまるホールで、約2年半ぶりに舞台復帰。今年4月3日には所属吉本興業の110周年興行「伝説の一日」に出演し、約3年ぶりに聖地なんばグランド花月(NGK)の舞台を踏んだ。

昨年末以降、仕事復帰の度合いを強めているが、この日も恒例の「負けず嫌いなんで、100戦100勝でいきたい」宣言も飛び出した。