暮れに悲しい知らせが相次いで届いた。
プロゴルファーの尾崎将司さんが、23日にS状結腸がんのため、78歳で死去した。ジャンボの愛称で呼ばれ、1970年(昭45)にプロテストに合格。翌71年に日本プロで初優勝を飾ると5勝を上げて、ゴルフブームを巻き起こした。73年から始まった日本のツアー制度は、まさにジャンボ尾崎の出現によって実現した。世のサラリーマンは、こぞってゴルフを始めた。40代だった記者の父親もゴルフを始めて、打ちっ放しの練習場に一緒に行った。
そんなジャンボさんの取材をしたのは、ほんの一瞬。実質、昭和最後の年となった88年(昭63)のことだった。4月のダンロップオープンから6月の札幌とうきゅうオープンの8試合。そのどれかの練習ラウンド後のドライビングレンジでのことだ。テーラーメイドが2年前に世に出した、メタルウッドのツアープリファードを前シーズンから、いち早く使っていたジャンボさんはガンガン打ち込んでいた。
特筆すべきは、そのティーアップの高さ。今の大きなチタンやカーボンのヘッドでも、ティーの高さは平均が3・5センチくらい。それをジャンボさんは当時で7センチくらい、フェースの長さよりも高くティーアップしていた。オープンスタンスから飛距離を稼ぐドローボールではなく、フェードボールを打っていた。
高いティーアップが珍しくて、ジッと見ているとジャンボさんが説明しくれた。「高いティーアップでハイボールを打つ。メタルはフェースがちょっと滑るからしっかり捕まえて、スピンの少ないボールを」。当時はチンプンカンプンだったが、後にレッスンの原稿を書いたりするうちに理解できるようになった。今では当たり前の「ドライバーを飛ばすにはロースピンのハイボールを打つ」という理論を、37年前に教えてもらったのだ。
この年、ジャンボ尾崎さんは6回の優勝を飾り、11年ぶり4度目の賞金王に輝いて完全復活を果たした。特に10月の日本オープンでは、宿敵の青木功(83)、中嶋常幸(71)と激闘を繰り広げて5アンダー、1打差で14年ぶり2回目のナショナルオープン制覇を果たした。最終18番の80センチのウイニングパットは、構えに入ってから2回にわたって仕切り直してしびれた右手の指を振って、3度目のアドレスで沈めた。日本のゴルフツアー史に残る名シーンだ。
記者はこの年、6月以降は米ツアー取材に赴いて、返ってきたら異動になったので劇的な優勝はテレビで観戦した。ジャンボさんと再会したのは、13年(平25)に25年ぶりにゴルフ記者を拝命した時だった。訃報を受けて、親友のタレントなべおさみ(86)の追悼の原稿が久しぶりのジャンボさん関連の原稿になった。
そして26日には、TBS「想い出にかわるまで」、NHK朝の連続テレビ小説「ひらり」などの脚本家で、女性初の横綱審議委員も務めた、内館牧子さんが17日に急性左心不全のため77歳で亡くなった訃報が届いた。
ドラマ、格闘技でお世話になった内館先生への追悼はたっぷり書いた。書かなかったこと2つあった。内館先生が脚本家として世に出た平成初期は、フジテレビがトレンディードラマで旋風を巻き起こしていた。そのトレンディードラマ担当だった記者だが、一番好きなドラマを聞かれたら「想い出にかわるまで」を選ぶと言うと、すごく喜んでくれた。
17年に小説「終わった人」が話題になった時にインタビューした。ドラマやプロレスの話題で盛り上がった最後に聞いてみた。「大学を卒業して、すぐに三菱重工という立派な会社に就職したのに、35歳で辞めて脚本家になったのはどうしてか」と。「だって、当時は男優先の社会でしょ。女のくせにっていうのをはね返して頑張っても、女だから評価されなかったのよ」。男女雇用機会均等法が施行される3、4年前のことだった。
ジャンボさん、内館先生、ありがとうございました。ご冥福を祈っております。【小谷野俊哉】



