真田広之(52)が米映画「ウルヴァリン:SAMURAI」(ジェームズ・マンゴールド監督、13日公開)でタイトル通り、サムライとして存在感を示している。米映画「ラストサムライ」出演から10年。ハリウッドのスタッフからの信頼も厚く、日米間の懸け橋として、今では欠かせない存在となっている。現在はロサンゼルス在住。一時帰国中の合間に話を聞いた。

 人気コミック「Xメン」シリーズの新作「ウルヴァリン-」は、手から3本刃を生やした不死身の主人公(ヒュー・ジャックマン)が日本を舞台に活躍する物語。一番の見どころは、敵役の剣の達人、真田との文字通り汗がしたたるリアルな殺陣だ。「最近は撮影で柄(つか)だけを振り回して、後からCGで刃を書き足す手法が主流。でも今回は監督の方針もあってジュラルミン製の刀で本格的な殺陣をやることになったんです」。

 トム・クルーズと共演した「ラストサムライ」の好演ですっかり認知された真田への監督以下スタッフの信頼は厚かった。「一手一手に感情がのるような作りにしましょうと。でもコミックヒーローのヒューは上半身裸です。万が一にも傷つけるわけにはいかない。当てられない。寸止めでも迫力が出ない。『さわり止め』ですね」。

 東映京都撮影所で鍛えられた真田が時代劇エリートなら、ミュージカル育ちのジャックマンは一流のダンサーでもある。「位置取り、早さ、タイミング、全てが正確。(和風邸宅のセットの)中庭には池があって後ろ向きの彼は気になったはずですが、僕を信じて微妙な合図に従い、まるで後ろに目があるように回り込む。金属の当たる音が響き、汗がしたたるんですが、動きはソーシャルダンスそのものでしたね」。監督も見ほれたようにカメラを止めず、流れるような長回しで見応えのあるシーンになった。

 「ラストサムライ」の実績、スタッフ間の口コミがなければ、自信家ぞろいのハリウッドの面々が簡単に真田のアドバイスに従うはずはない。「あの時は、これが最初で最後のハリウッド映画になってもいいって思いで臨みました。殺陣はもちろん、時代考証でも何でも、気付いたこと、思ったことはどんどん言いました」。

 フィルム編集にも立ち会い「あれこれ口出しした」という。「嫌われたという自覚はありましたが、日本の描写がおかしなことになっても困るので」。

 完成後、しばらくしてスタッフの1人から電話で食事に誘われた。「あまりいい話ではないと思っていた」が、それはスタッフ全員がそろった「感謝の夕げ」だった。「いつの間にか惰性で映画作りをしていた私たちに、あなたは初めて撮影所に行った時のフレッシュな感覚をもう1度味わわせてくれました。ありがとう」。そんなスピーチを聞いて真田は男泣きした。

 今では「日本」に関わる部分に関しては、事前にスタッフが衣装やセットの図面を持ち込んで真田に意見を求める。「専門家だと『これはあり得ません』で終わりになってしまう。映画作りの事情、ハリウッドの人たちのイメージも尊重して折衷案を提示できる人間が実はいないんですよ」。文字通りスーパーバイザーとして貴重な存在なのだ。

 海外進出のきっかけは99年のロンドン。ロイヤル・シェークスピア・カンパニー公演「リア王」(蜷川幸雄演出)にただ1人の日本人俳優として参加した。「英語も日常会話がやっとというレベル。シェークスピアの専門家を含め5人のコーチについて6カ月間の語学特訓でした」。今は亡き中村勘三郎さんから贈られた英国国旗への寄せ書きを楽屋に張った。「こければ海外での可能性を絶たれ、日本にも帰れない」。勘三郎さんはそんな役者の性(さが)、厳しさを分かっていた。

 公演は成功した。主演のナイジェル・ホーソンに次ぐ熱い拍手で報われた。しかし公演後、ロンドンにアパートを借りて2カ月間。「次」のオファーはなかった。「そんなに甘いものではなかったんです。悶々とする毎日でした」。

 そこに送られて来たのが山田洋次監督の「たそがれ清兵衛」の台本だった。救われた。チャンバラではないリアルな時代劇も「いつかやりたい」と思っていた。「たそがれ清兵衛」の公開が02年。翌年「ラストサムライ」が続いた。「今思えば、なのですが、やってきたことはどれも無駄ではなかった。全てはつながってるんだなと」。

 当面はロサンゼルスを本拠に活動を続ける。今回の一時帰国も3日間のとんぼ返り。現在はカナダ・モントリオールで米ドラマの収録に参加している。【相原斎】

 ◆真田広之(さなだ・ひろゆき)1960年(昭35)10月12日、東京都生まれ。日大芸術学部卒。6歳の時から子役として映画出演。80年「忍者武芸帖

 百地三太夫」で初主演。「魔界転生」「快盗ルビイ」などの映画で幅広い役をこなす。03年「ラストサムライ」出演後に07年「ラッシュアワー3」でジャッキー・チェンと共演。99年の舞台「リア王」で名誉大英勲章第5位を受けている。