今年も2月末で引退する調教師が語る「明日への伝言」を連載する。栗東・五十嵐忠男調教師(70)は、騎手・調教師を合わせて計50年間、ずっと夢を追い続けてきた。中学生の頃、師匠である田所秀雄元調教師にスカウトされて飛び込んだ競馬の世界。「夢を持って挑戦し続ける」をモットーに、走り続けたホースマン人生だった。【取材・構成=藤本真育】

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師匠である田所さんに声をかけられて、この世界に入りました。たまたま運動会の時に、僕が校庭を走り回っていたのが目に留まったらしいです。それまで競馬なんか知らなかったし、今考えれば運命的な出来事でした。それから50年。今でも競馬の世界に入って良かったと思っています。

しかし、騎手時代はあんまりいい思い出はありません(笑い)。1頭の馬を競馬に慣れさせ、勉強させて勝つ。調教師になった今もそうですが、その過程が面白かったりしたんです。ですが、思い通りにはいかないですよ。デビュー当時は、全然だめだった馬にいろいろ経験させ、2着に持ってきて「よっしゃ~」ってなる。けど、その次に乗り替わるんです。そしてスコーンと勝たれる。それが悔しかった。イソノルーブル(※)もそうです。当時は調教師試験を受け始めた時だったので「勉強する時間が増えて良かった」と思うようにしていましたが、やっぱり腹の中では悔しかったです。

調教師になってからも悔しいことはたくさんありました。人気になっていて「負けるはずがない」という馬で負けたり、調教は動くのに能力が出せずに走れない、そんな馬をいっぱい見てきました。そのたびに夜中に起きて悩みましたよ。「どうやったら勝てるねん。あ~なんでこんな時間に起きなあかんねん」とか。あと、厩舎で唯一G1を勝ったテイエムプリキュアの子で1つは勝ちたかった。これまでデビューした8頭すべてを管理してきましたが、1頭も勝たせられなかったのは心残りです。厩舎開業から30年間ずっといる唯一のスタッフに、重賞を勝たせてあげられなかったのも悔いが残ります。

そんな悔いばかりの50年でしたが、それを上回る達成感がこの世界にはあります。最近でいうとウインマイティーかな。20年の秋華賞で不利があって、そこから馬が怖くなってね。2年くらい不振が続きましたが、復活してくれた時は安心しましたよ。最終的には馬自身の精神力で乗り越えたんだと思うけど、いろいろ試行錯誤してやってきたことが結果につながった。それが楽しいというか、やりがいなんです。プリキュアもそうです。09年日経新春杯を勝った時はめちゃくちゃうれしかった。思わず琢真(荻野琢騎手)に抱きついていましたから。いい思い出です。

馬にはさまざまな経験をさせてもらいました。今考えると長いようで短い50年でした。そんな中で思うのは、騎手、調教師など競馬関係者は夢を追いかける仕事だということ。僕はずっと夢を見てきました。いつかはG1を勝つとかね。そういう目標がないとつまらないでしょ。だから今の若い人には夢を捨てないでほしい。諦めずにやれば、ひと花咲かせられる。例えばですけど、芝で走らなかったらダートへ、ダートがだめなら障害へ。可能性を求めて、いろいろなことに挑戦してください。そうやってこれからの競馬界を盛り上げてくれたら、僕はうれしいです。

※イソノルーブル 91年オークス馬。90年9月の新馬戦→3歳抽せん馬特別(500万=現1勝クラス)→ラジオたんぱ杯3歳牝馬S→エルフィンSと、デビュー4連勝の鞍上は五十嵐忠男騎手だった。

◆五十嵐忠男(いがらし・ただお) 1952年(昭27)11月9日、京都府生まれ。70年4月から京都・田所秀雄厩舎で騎手候補。73年3月に栗東の同厩舎から騎手デビュー。JRA通算2584戦176勝。84年中日新聞杯をアスコットエイトで、90年ラジオたんぱ杯3歳牝馬Sをイソノルーブルで制した。93年に調教師免許取得、94年に開業。22日現在、JRA通算5908戦428勝。重賞は16勝、うちG1はテイエムプリキュアでの05年阪神JF。

05年の阪神JFを制したテイエムプリキュアと熊沢騎手。左は五十嵐師
05年の阪神JFを制したテイエムプリキュアと熊沢騎手。左は五十嵐師
19日、テイエムスパーダの追い切りを終えた今村騎手の話を聞く五十嵐師(右)(撮影・白石智彦)
19日、テイエムスパーダの追い切りを終えた今村騎手の話を聞く五十嵐師(右)(撮影・白石智彦)
2月末で引退する調教師
2月末で引退する調教師