4日に行われた甲子園組み合わせ抽選会。東北の相手が神奈川代表・横浜に決まると、児玉修哉主将(3年)の顔がほころびました。

「やりたかった相手だ…」。

相手は強力打線を備え、プロ注目右腕・藤平尚真(3年)擁する優勝候補筆頭。それなのになぜ笑顔が出たのか? 実は、児玉選手の父・貢さん(55)は横浜野球部の出身。愛甲猛氏(元ロッテ)の2学年上で、1年時に甲子園出場を果たしています。幼少時代は父が着たYOKOHAMAユニホームに憧れたこともあった児玉選手。しかし、レギュラーをつかめなかった父から「横浜高校はお前なんかが行って通用するチームじゃない」と言われ「そうだよな。でも、いつか対戦の場に立ちたいな」と意識していた存在だったのです。それが、9日の初戦で実現。横浜対東北、意外にも甲子園では初の対戦となります。

 7年ぶり22回目の優勝を決めた東北。勝ち上がってきた強さの裏に、サードコーチャー児玉選手の的確な「判断力」がありました。

準決勝の仙台育英戦。延長11回裏、1死三塁。児玉選手は三走の松本大雅選手(3年)の俊足を信じ「ライナーバックは捨てろ。当たった瞬間、ゴロ・ゴーだ」と指示。前進守備の瀬戸泰地二塁手(3年)が前試合で右指を負傷していることも頭に入れ、思い切った決断をしました。結果、スパイク半足ぶんのタイミングでセーフ。サヨナラ勝ちを呼びこんだのです。

 父・貢さんの話では「修哉は幼稚園の頃から兄(悠太さん=元東北野球部で現26歳)の野球をずっと見てきた。打者や投手を見るのではなく、三塁手の動きをジッと観察したり、試合ごとにテーマを持って凝視する子供でした」。横浜・渡辺元智監督(当時)から豪快かつち密な「横高野球」を学んだ貢さん。「『上からたたけ!』が主流だった当時の打撃論で、渡辺監督からは線でとらえるレベルスイングを教えてもらいました」。培ったDNAを息子が受け継ぎ、甲子園出場へと導いたのです。

 3日の甲子園練習。児玉選手が着眼したのは外野フェンスの「丸み」でした。「はね返った打球がフェンスに沿って動く」(朝日新聞宮城版記事より)と、サードコーチャーの嗅覚を研ぎ澄ませました。昨秋の東北大会後は、自分勝手な行動でBチーム降格を経験。監督、選手間のミーティングの末、112代目の新キャプテンに推薦され「このチームで甲子園に行きたい!」と強く感じたそうです。「相手が強ければ強いほど燃える。挑戦者として自分たちの野球を貫きたい」。宮城大会から不動心で戦ってきた101人の仲間とともに、児玉選手が自信を持ってその右腕をグルグルと回します。【樫本ゆき】

 ◆樫本ゆき(かしもと・ゆき)1973年(昭48)2月9日、千葉県生まれ。94年日刊スポーツ出版社入社。編集記者として雑誌「輝け甲子園の星」、「プロ野球ai」に携わり99年よりフリー。九州、関東での取材活動を経て14年秋から宮城に転居。東北の高校野球の取材を行っている。