ザ・グレート・カブキの米良明久少年が日本プロレスの合宿所に力道山を訪ねたのは、昭和38年10月10日だった。

 15歳のときだった。合宿所にいたグレート小鹿がそのときのことを覚えていた。「朝5時すぎだったかな。合宿所にいた犬が吠えるんで、1階に降りていったら、小さな少年がちょこんと座っていた。あれがカブキだったんだ」。

 「坊や、事務所は渋谷だから、そっちに行って話したほうがいいよ」。小鹿から言われたものの、宮崎から出てきたばかりの米良少年は電車の乗り方も分からない。仕方なく出直して、翌年1月15日の成人の日に、もう1度日本プロレスの事務所を訪ねた。その間に力道山が亡くなったため、米良少年は会う機会を無くしてしまった。そんな少年に豊登が「卒業したらおいで」と声をかけてくれた。口約束では納得できない米良少年は、豊登に一筆書いてもらい、入団が決まった。

 あれから54年。22日のプロレスリング・ノア後楽園大会で、カブキは引退試合を行った。入場曲が鳴ると、詰めかけたファンのカブキコールが巻き起こった。忍者装束に身を包み、両手にヌンチャクを持ってリングに上がると、緑色の毒霧を高々と吹き上げた。

 80年1月、米国遠征中のカブキは、ブルーザ・ブロディーのマネジャー、ゲーリー・ハート氏に呼ばれダラスに向かった。事務所でいきなり雑誌を渡され「お前、これができるか?」と尋ねられた。そこに映っていたのは連獅子の写真。当時、米国で試合をする日本人の格好といえば、田吾作スタイルで、相手に塩をまくスタイルが主流。そんな中で、カブキは、連獅子をまねて、自分で布を縫って衣装をつくり、ザ・グレート・カブキが誕生した。

 試合後のシャワールームで口に入った水を噴き上げたことをきっかけに毒霧を考案。緑と赤の液体を風船に入れ、口の中に含ませて吹き出す毒霧殺法で、米国で大ブレークした。

 アンドレ・ザ・ジャイアントとの抗争は、特に人気を博した。最初、15ドルほどのファイトマネーが、50ドルに跳ね上がり、さらに200ドルになった。最高で、1試合300万円のファイトマネーをもらったこともある。「あのころは本当にすごかった。試合が終わると、駐車場にファンが大勢待っていて、VIPの通用口から出してもらったこともあった。世界中を旅し、アラブ王様の前でプロレスをやったこともあるよ」とカブキは言う。

 83年2月には全日本に逆輸入の形で凱旋(がいせん)帰国。日本でもカブキスタイルが爆発的な人気となり、日米で活躍した。

 引退試合が終わると、日本プロレス時代の先輩、グレート小鹿や藤波辰爾、川田利明ら関係者から花束をもらった。最後に、1人娘の映理さん(25)から花束と「パパありがとう、大好きです」とねぎらいの言葉をかけられ、リング上で抱き合った。10カウントが終わると、ヌンチャクを振り回し、リング上に静かに置き、最後の毒霧を天井へ吹き上げた。

 「ヌンチャクと毒霧はこの仕事を始めたときからやっているので、ここ(リング)に置いてきたほうがいいかなと。もう思い残すことはない。すべてやってきた」と、カブキはほっとしたように話していた。