7日(日本時間8日)に亡くなった伝説の覆面レスラー、ザ・デストロイヤーさんは、故力道山の好敵手として有名だった。63年5月に力道山の招きによって日本プロレスに初来日した。米国のプロモーターへ日本行きを打診されたとき、デストロイヤーさんは激しく拒絶したという。

当時の話をデストロイヤーさんから聞いた力道山夫人の田中敬子さんは「デストロイヤーさんは、『オレは日本人は嫌いだから日本には行きたくない。真珠湾を攻撃した日本人は許せない』と断ったと言っていました」と話す。力道山と1試合だけして帰ってくればいいから、と説得され、渋々来日したという。

しかし、力道山とデストロイヤーさんの試合は、日本で絶大な人気を博した。63年5月24日、東京体育館で行われたWWA世界ヘビー級選手権での2人の戦いは、平均視聴率で64・0%という驚異的な数字をマーク。足4の字固めという当時の日本では見慣れないワザを駆使する、力道山の好敵手の人気は急上昇。デストロイヤーさんの日本への考え方も変わっていった。

「ボクの思っていた日本人の感覚とは違っていた。こんなに日本人が素晴らしいとは思っていなかった」と、デストロイヤーさんは敬子夫人に漏らした。そして、麻布十番に住み、息子と娘を日本で育てた。最近まで毎年、夏に行われる麻布十番祭りには、ハッピを着て参加していた。また「フォーギア・スクール」というレスリング教室を開き、日本の子どもたちにレスリングを教えていた。

63年12月8日、力道山が暴漢に刺された日も、デストロイヤーさんは、飲み会の1次会まで力道山と一緒にいた。翌日の早朝の便で米国へ帰国するため2次会には参加せず、先に引き揚げた。その後に事件に遭ったことを知ったデストロイヤーさんは後日、田中さんに「本当にボクが最後まで宴会にいたら、あんなことはさせなかった」と、言葉を詰まらせながら悔やんでいたという。

田中さんは「優しい方で知識人。レスラーというより学者さんタイプのすばらしい人でした。心からご冥福をお祈りします」と話していた。【桝田朗】