鹿島アントラーズに“アジア最高の輝き”を与えたのは、間違いなくこの人の存在だった。8月に、16年ぶりにテクニカルディレクター(TD)として復帰したジーコ(65、以下敬称略)。戻ってからの24試合は14勝6分け4敗。それ以前の12勝8分け9敗から、勝率は2割も上がった。チームを劇的に変えた。【取材・構成=今村健人】

ジーコ まず選手が理解しないといけないのは、鹿島の歴史でした。このクラブの歴史を知った上で、袖を通しているユニホームの誇りを持たなくてはいけない。その上で練習メニューは今、世界でやっているもの。何も問題ない。後は選手の意識改革が必要でした。だから「家に帰って鏡で自分に問いかけてほしい。最大限のことを日々、やっているかと」と言いました。私は特別なことはしていない。地に足をつけて歩むという単純なことです。

当時日本リーグ2部だった住友金属(現鹿島)に電撃復帰して加入したのが、91年5月。何もないところから「プロ意識」を育てた。勝つことに対するこだわり、敗北を受けつけないメンタリティーは脈々と受け継がれ、国内最多タイトルを保持するまでになった。

だが、その「ジーコ・スピリット」に緩みが見え始めていた。鈴木強化部長は「世代が変わり、人も監督も代わって、意識や注意、集中力がぼやっとしてきたところがあった。緩みがあるなと。それが前半戦の成績にもあった。だから、グレーで済ましてしまうところを、白黒はっきりさせようとジーコを呼んだ。あんなにハッキリした人はいない。もう少しグレーの部分を残してと思うぐらい」。

ジーコ 選手と話す前、常にフロントと話します。どういう目的か、どういう意図か、と。クラブを良くするための全権をもらっているので。唯一、口を出さないのはチーム編成やシステム。それは、優秀な指導者に任せている。

実際、集客との兼ね合いで午後3時に行われた3日の決勝第1戦についても、ジーコは選手の休む時間を考慮して「午後7時からやるべきだ」と主張していた。勝つためにあいまいさを許さない。鈴木部長は「マンネリ化していたところを突っついてくれる」。昔は黒板を力強くたたいてマグネットを落としたほど。「だいぶ丸くなった」と笑うが、根底はぶれていない。

ジーコ サッカーは団体スポーツ。1人ではできない。私がキャリアの始めからいまだ変わらないことは「自分のためでなく、チームのためにプレーする」こと。クラブに全身全霊を懸けるのは当たり前。それを選手たちに言い続けました。目立とうとエゴが出ると、チームはタイトルを逃す。おかしくなり始める。

ジーコ自身、実際に貫いた経験がある。フラメンゴ(ブラジル)時代の81年のトヨタ杯で、リバプール(イングランド)に3-0で下したときのことだった。

ジーコ 試合前にトヨタから最優秀選手と「足のいいやつ賞」の2人に車2台が贈られると言われた。そのとき、全員で集まって話したことは「誰がもらおうと、その車を換金してお金を分けあおう」と。個人でなく、チームのためにみんながプレーしました。結局(全得点に絡んだ)私と2得点のヌネスが1台ずつもらい、換金はできなかったので、車の対価300~400ドルを全員に払いました。ちなみに、そのセリカはいまだに所有しています。

ブラジルの言葉に「今日できることは明日に回さない」がある。後悔を残さずに1日を終えること。選手生活が短いと知っているから、一切の妥協を許さない。今、ジーコの哲学は文書で残し、鹿島の“教科書”として受け継いでいる。

ジーコ あのとき、ああしていればと思ったときには、1年は終わっている。後悔を残して1日を終えると停滞する。鹿島はビッグクラブで居続けてほしい。今タイトルが20個しかないなら、もっと取らないといけない。25年後も常に最大のタイトルホルダーで居続けてほしい。人間が生きるためには、食事を取らないといけない。クラブはタイトルを取っておなかをいっぱいにする。鹿島は、常にその意識のもとで取り組まないといけない。生き続けなければ、いけない。