【あのドラ1の今】元阪神的場氏の引退の真実「もっと歯を食いしばったら…」しくじりを生かした育成の道
「あのドラ1の今」。野球好きに響く不朽のテーマです。ここに「阪神」のまくらことばが付くと…グッと濃度が増す気がします。1999年(平11)ドラフト、逆指名の1位で阪神に入団した外野手の肖像。引退の引き金となった独白と奮起。
ストーリーズ
浜本卓也
20年、春のことだった。
99年阪神ドラフト1位の的場寛一(44)は、自宅で1枚のメモを見つめていた。
05年で阪神を退団後、社会人野球のトヨタ自動車でプレー。12年に現役を引退し、同社人事部で女子ソフトボール部の運営に携わった。
その後、米スポーツメーカー「アンダーアーマー」の総代理店の株式会社ドームに転職。店舗の店長やオフィシャルパートナー契約を締結した四国ILの担当と着実に経験を積み、人脈の枝葉も伸ばしていた。
メモを手にしたのは、周囲には充実した第2の人生を送っているように映っている、そんな時だった。
2年前に書いた文章に目を通すと、しばし固まった。
そこには、こう記されていた。
「的場君、組織はまず合わないと思います。2020年の秋以降、これぐらいに独立したらいいタイミングですよ。さかのぼって1年前の2019年6月に会った人、久々に会った人がいます。その人と一緒にやるといいかもしれないですね」
この時、的場は悩んでいた。ドームには「東京五輪があるし、東京でスポーツ産業を勉強したい」との思いから転職した。
だが新型コロナウイルスの猛威により、人生プランは狂っていった。
東京五輪は1年の延期が決定。在宅勤務が増えると、必然的に自分と向き合う時間が生まれた。
40代前半、独身。「スポーツ産業自体、兆しがどうなのか。東京五輪も延期になり、思っていたのと違うなと。おれ、このままでいいんかな…」。
新しいステージにチャレンジするなら今だという気持ちと、腰を据えて現職に取り組むべきという気持ちに揺れ動いていた。
2年前のメモを思い出したのは、そんな時だった。メッセージの〝主〟は、テレビでもおなじみの、あの人気占い芸人だった。
背中を押された占い師の言葉
18年の、ある夜のことだった。知人の紹介で、人気占い芸人のゲッターズ飯田と同席する機会があった。話の流れで、的場も占ってもらうことに。その場で過去の出来事や性格をずばずば当てられた。
「すごいな」。その驚きから、最も知りたかった「未来」についての占いだけは、内容を忘れないようにと帰宅後にペンを握り、書き残していた。
占いの存在を思い出したのは、自問自答の日々を送っている時だった。メモを読み終えると、迷いは消えた。
「背中を押してもらった。その言葉がなかったら、ずっとドームにいたかもしれない」
ドーム内にあったプロテイン部門の「DNS」が独立することになり、「DNSの野球部門をやってほしい」と声をかけられていたのもあった。ドームを退社し、DNSに転職することを決断した。
占いでは「19年6月に久々に会った人」とタッグを組むことを勧めてもいた。当てはまる人物が、1人だけいた。「誰やろうと思って手帳を見たら、この人やってん(笑)」。
3学年上で小2からの幼なじみの「めぐむ君」こと、豊留恵氏だった。
豊留氏は、的場と同じ「兵庫尼崎ボーイズ」出身で3学年先輩。大阪桐蔭高では2番三塁で活躍した。
今は病院の環境向上のコンサルティングや、中日根尾ら野球選手も愛用する5本指足部用サポーター「フットラーク」や女性用の足部用サポーター「キュットラーク」を販売する株式会社ライジングユニオン社長として、日本全国を奔走していた。
的場は豊留氏にメッセージを送った。1通のメッセージが、その後の運命を大きく変えることになった。
独立する覚悟が人を動かした
20年夏の終わり。「アマチュア野球の人を紹介してください」。豊留氏は的場がドームを退社して飲食業を始めるのではといううわさを耳にしていた。「だから、なんでアマチュア野球なんだと。冷やかしかと思いました」。
後日、目の前には熱弁を振るう的場がいた。そこで初めて、独立してプロテインを扱うDNSで働く覚悟を聞いた。
「DNSと先輩の業務をくっつけて、みんなに野球を好きで終わって欲しい」。思いの丈を聞いた豊留氏は「彼の言葉が響きました。それは僕も目指すところ。一緒にやれば体作り、ケアと指導者には願ったり叶ったりになる。プロまで経験した人の話をただで聞けるわけですから」。本気度を悟り、握手を交わした。
今は2人で全国各地を飛び回り、アスリートや病院施設のサポートを行う。新規事業は、占い通りに軌道に乗っていった。
だが、的場は野球人としての「もう1つの顔」を持つようになった。
「人間として考える力を養うこと」を主眼に、子どもたちに野球技術や人間教育を行う野球のアカデミーで、昨年から指導者の道を歩み始めた。
「子どもに質問して、質問して、答えに行き着かせるのは、今までの野球チームにはないところだった。うまくいった、いかなかったもあるけど、野球をやり切って、最後に野球を好きで終わる子が1人でも多くなったらいいなと。きれいごとじゃなくて。おれは、何回も野球を嫌いになりそうなことがあったから」
DNSの業務は出張が多い。どんなに多忙を極めようが、笑顔で子どもたちの元へ足を運んだ。
二足のわらじを履こうと決めた理由には、忘れたくても忘れられない、ドラフト1位で入団した阪神時代の〝悔恨〟があった。
ドラ1の重圧、消えないウワサ
的場は甲子園のお膝元、兵庫・尼崎市内のスポーツ用品店の息子として生まれた。野球道具に囲まれて育った。
父が監督を務める「兵庫尼崎ボーイズ」から頭角を現すと、九州共立大時代には3拍子そろった遊撃手として全国に名をとどろかせた。大学4年時、地元の阪神を逆指名。子どものころからの憧れだっただけに、迷いはなかった。
「自分で選んだ道やけど、とんでもない重圧だった」。タテジマにドラ1として袖を通す夢を叶えた瞬間、想像を絶するいばらの道を歩きだしていた。
入団1年目の正月だった。尼崎に帰省中、広報から「体あいてる? 甲子園においで」と連絡を受けた。
行けば、選手は1人の貸し切り状態。翌日の1月5日、「ドラ1的場が甲子園で独占自主トレ」というニュースが大々的に報じられた。金の卵をアピールしたい球団の親心。だが、チームメートはそんなことを知るよしもなかった。
2月1日、春季キャンプ初日。先輩にあいさつをしてもよそよそしく、反応が悪かった。
的場が志願して甲子園貸し切り自主トレをやったのではといううわさが流れていたと知った。
「今思うと、なんであそこで断れなかったんだろうって。甲子園で自主トレやって、先輩方が『こいつ生意気やなあ』みたいな印象から入ってた。『全然歓迎ムードちゃうやん』から始まったから」
誤解から生まれた緊張感の中、打撃練習では20台以上のカメラのレンズを向けられた。移動時も番記者に取り囲まれた。先輩に、報道陣に、ファンに、常に見られ続けた。
こんなことは、今までになかった。期待に応えたい思いも、余計な焦りを募らせた。無理がたたり、いきなり脇腹を肉離れした。
「気を抜けないから完全にオーバーヒート。『見られている』って勝手に思っていて、何にしても消極的だったから」。
1年目のオフから2年連続で左膝を手術。世間の見方も「期待のドラ1」から「なかなか芽の出ないドラ1」となり、背番号も「2」から「99」に変わっていた。
不遇しかないプロ生活だったが、6年目の05年、ようやく定位置奪取のチャンスが巡ってきた。だが、人生を大きく狂わせる〝事件〟を犯してしまうとは、夢にも思っていなかった。
好調からの落とし穴、戻らなかった右肩
プロ6年目の05年。外野手に転向していた的場は、春季キャンプから打撃が絶好調だった。不振だった新外国人スペンサーに代わって、オープン戦のスタメン出場を続けていた。
岡田彰布監督からは、右翼での開幕スタメンを示唆されていた。「集大成じゃないけど、ある程度プロ野球の何かが分かってきて、勝負できるなと思っていた」。
左翼金本、中堅赤星。猛虎を代表する名選手と外野陣を形成するという目標が、現実味を帯びてきた。
「これだけ周りがお膳立てしてくれて、毎試合打たないとあかんレベルやと思っていた。勝手に恥ずかしいことをしたらアカンと」
ドラ1の期待にやっと応えられる、今度こそ応えたい―。強すぎる思いが、プロ野球人生にピリオドを打つ〝事件〟を引き起こした。
3月9日、甲子園での楽天とのオープン戦。「9番左翼」で先発した的場は9回2死、左翼への安打で二塁を狙った打者山崎武司を好返球でタッチアウトにして、5―1で試合を終えた。
だが、その送球で右肩を脱臼。開幕スタメンどころか、右肩が元通りに動かなくなる致命傷だった。
これが、当時に明るみになっている事実だ。「補殺したときに痛めた、ってなってる。でもな…」。
真実は、別にあった。
しばしの沈黙後、鋭い表情のまま口を開いた。
「実はな…腹立ってグラブ投げて、脱臼して…。それまで毎試合のように打っていたんだけど、その日だけタコった(無安打)んや。チャンスで1本打てなくて、タコって『くっそー』って。『開幕に胸張っていかれへんわ』って腹立ってさ。試合後にグラブを投げたんや。そしたら…脱臼した。それまで肩は元気やったんやけど…」
試合終了直後、無安打だったいら立ちから、ベンチでグラブを投げ付けた。
幼少期から、スポーツ用品店を営む父に「道具は大事に扱いなさい」と教えられて育った。
ようやくチャンスをつかみかけた時、最も大切にしてきた信念に背いてしまった。道具に怒りを乗せてしまった直後、右肩に激痛が走った。開幕スタメンの目標は、自らの手で閉ざしてしまった。
リハビリを終えても、右肩は元に戻らなかった。
2軍では一塁を守った。打撃の状態が上がってくると「代打1本で1軍に来い」と言ってもらった。だが、打力だけで勝負できるほど甘い世界でないことは、分かっていた。
「(走攻守の)3つそろってようやくの選手だから、そんなことはできません。治ってから勝負させてください」と丁寧に固辞し、必死にもがいた。
だが、2度と完治しなかった。「治らんまんま、終わった」。
この年、阪神は9月にリーグ優勝を決めた。的場は自宅にいた。胴上げの直前、消していたテレビをつけた。
「見たくなかった。でも、テレビつけて見てね。胴上げしてるところ。ほんまやったらあそこにおったはずやのにな…って」
その秋、自由契約を通達された。グラブを投げたあの〝事件〟が原因であることが、的場を大いに苦しめた。
「道具を…投げた。しかも…。悔しいな」
道具の大切さは、生まれた時から身をもって知っているつもりだった。
少年時代にスポーツ用品店で描いていた、阪神入団の夢。大人になって抱いた、満員の甲子園で活躍する次なる夢は、くしくも野球道具をむげに扱ったことで終えてしまった。
ずっと胸にしまってきた、一生消えることのない苦しすぎる出来事が、その後の生き方に大きく影響することになった。
背負った十字架、それでも…
的場は今、プロテインを扱うDNSでの仕事と平行して、野球だけでなく人間教育といった独自の指導を行う野球のアカデミーで子どもたちを指導している。
「こうしろ」「ああしろ」と押しつけることはせず、「野球は楽しいんだよ」という気持ちを邪魔しないよう、じっと寄り添って答えを待つ指導を心掛けている。
なぜ、子どもたちへの指導者を志したのか。理由の根っこには、阪神での6年間の日々がある。
「伝統のあるユニホーム、小さい頃から着たかったユニホームを着させてもらったのもあるし、今となっては、いい経験をさせてもらったと思えるからこそ、先輩・後輩(の関係性)でやめたとか、けがしてやめたとか、失敗してやめたとか、そういう子が1人でも少なくなったらいいかな。そうすると、自分が大きくなって子どもを授かった時に『野球ってこんなにええもんやで』って伝えられるやん。『やめとけよ』っていう親も増えるのを阻止したい。そこやろね」
4月から、北海道独立リーグ「石狩レッドフェニックス」の監督で、阪神時代の先輩で公私ともに世話になっている坪井智哉氏からの臨時コーチ就任の話を快諾した。
多忙の中、毎月1、2回は北海道へ。4~5日のペースで、守備コーチとしてプロ入りを夢見る若者たちと汗を流す。野球漬けの生活にも「やりがいがあるよ」と声を弾ませた。
期待に押しつぶされそうになった時も、うまくいかなかった時も、怒りにまかせて大切なグラブを投げたことで選手生命にピリオドを打ってしまった時も、野球から離れなかった。
野球を嫌いにはなれなかった。野球に、いつも支えられていた。野球で知り合った仲間に、ずっと助けられてきた。引退後に実感したのは、そのことだった。
願いが叶うなら、阪神でのプロ6年間をもう1度、やり直したい思いがある。
「知識はこのままで入団したい。それやったらキャンプもうまく流すこともできるし、燃え尽きはしなかった。もっと、ちゃんとした栄養の知識があれば。もっと覚悟を決めて。真剣にやってたけど、もっと。練習も足りない、もっと。もっと歯を食いしばったら、もっとできていたはずやな」
繰り返される〝もっと〟に、言葉にできない後悔がにじむ。
ドラフト会議の日からずっと、「阪神ドラフト1位」の肩書は、十字架となってきた。だが年輪を重ねるごとに、1年に1人のみが手にできる十字架を背負った者でしか経験できない栄光と挫折を知る自分だからこそ、野球をする少年少女にできることがあると思うようになった。
けがをしない体作りの重要性、道具の大切さ。野球にまつわるさまざまなことを、自らのしくじり体験をまじえながら、伝えられるはずという信念が、今の的場を支えている。
「えらそうなことは言えないけど、野球で自分を苦しめるのではなくて、野球を始めたころの『うまくなりたい』気持ちをずっと持っておけばうまくなると思う。プロに入ると、薄まってくる。自分もそうだった。それを持っていればずっと練習できるから。どこかでヒントに気付いて、またがーんと伸びる。そういう選手が活躍するって思っている。実際、見てきた。そういう子の力になりたい。失敗してシュンとなるけど『気にするな』って言ってあげたい。グラブを投げる前の自分にも言ってあげたいよ。『どうでもいい、今のシュンと思ったことは。何日後かにはしょーもないことになってるから。タコっても気にするな』って。タコるのはイチローさんでもあるんだから(笑い)。どんな立場の方でもね。それが最後のチャンスな訳がないんだから」
「阪神ドラフト1位」の称号を手にした後は、苦しい思いをすることの方が圧倒的に多かった。
プロで描いた大きな夢は木っ端みじんに打ち砕かれ、故障に泣かされ、もがき苦しんだ。それでも、もし生まれ変わったとしても「阪神のドラフト1位」を目指すのだろうか―。
「目指す」。即答だった。
「(失敗したら)もちろんたたかれるけど、活躍したら、あの地鳴りというか、ファンの皆さんの歓声、あれは快感やった。むちゃむちゃパワーになるし、もう、甲子園で活躍して大歓声を受けたら…。他では感じられないんちゃう。でも、今はまず、DNSを全国に広めたいと思ってる。全国制覇。あとは、子供たちが将来、甲子園で活躍する姿も見たいけど、出ようが出まいが関係ない。みんなが元気にプレーしている姿を見たい。生まれ変わる前に、まだまだ頑張るよ」