「舟木一夫」は橋幸夫に付けられるはずの芸名だった!?

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80歳の誕生日で歌手引退を表明した橋幸夫。デビュー前の昭和ならではの逸話を紹介します。

番記者裏話

笹森文彦

橋幸夫が5月3日、79歳の誕生日を迎えた。80歳の誕生日で歌手引退を表明しており、ラスト1年となった。長引くコロナ禍で歌う機会が激減し、喉の衰えを痛感して引退を決意したという。培った歌唱技術で補えるのではと思うが、60年以上歌謡界を支えて来たプライドが許さないのだろう。「けじめをつけたい」と引退を表明した。

先日、その橋にインタビューした。昭和という時代に一世を風靡(ふうび)した歌手らしく、時代を反映したエピソードが満載だった。

橋はスポーツが得意で、特に中学に入るとボクシング、空手、柔道に熱中した。歌が好きなわけではなかった。いつしかボクサーになることを夢見るようになった。そんなある日、中学の先生が母に「どうも悪い友達とつるんでいるようだ」と伝えた。橋は「悪童じゃないですよ(笑い)。スポーツが好きなだけで。でも母や家族はハラハラ。(先生の言った)そういう連中と疎遠にさせようと、歌を習いなさいって。隣の床屋さんの職人さんが遠藤学校に入っているので、そこを紹介してもらうからって。母がどんどん決めた(歌手の)道なんです」と当時を振り返った。

遠藤学校とは作曲家・遠藤実氏のことである。中学2年から遠藤氏のもとでレッスンを積み、歌の才能が開花していった。そして将来性を確信した遠藤氏が橋のデビューのために準備した芸名が「舟木一夫」。左右対称の芸名はゲンがいいからと決めていた。

当時の歌謡界は専属制で、遠藤氏は日本コロムビアの専属作曲家だった。別のレコード会社の歌手に作品を提供すると、協定破りとなる。遠藤学校に通っていた橋は当然、日本コロムビアからデビューするのが自然の流れだった。

橋幸夫(2022年4月1日撮影)

橋幸夫(2022年4月1日撮影)

ところが橋はオーディションなどの関係で、日本ビクターからデビューすることになった。日本ビクターには「異国の丘」「有楽町で逢いましょう」などで知られた作曲家・吉田正氏がいた。吉田氏は本名の「橋幸男」から「『夫』の方が座りがいい」と「橋幸夫」と命名してくれた。そして60年に「潮来傘」でデビューするのである。

橋は当時を振り返り、懐かしそうに話した。「遠藤先生に(橋幸夫になったと)話したら、『そうか、残念だな…』って。それで探したんでしょうね、きっと。3年後に、今の舟木一夫君が日本コロムビアから『高校三年生』でデビューするんです」。

その翌年の64年には日本クラウンから西郷輝彦がデビュー。御三家時代が到来するのである。橋幸夫が舟木一夫だったかもしれないとは、昭和という時代ならではの逸話である。