解任を迷うな…異例の進言 クビになった経験が森保監督を強くした
ワールドカップ(W杯)カタール大会開幕まで6カ月を切った。日本代表監督の森保一(53)は、アジア最終予選の最中、成績不振で一時は解任の危機に立たされたものの、本大会の切符をつかんだ。広島の監督だった17年夏、事実上の解任を経験。だから今、強くいられる。あの年、48歳の森保に何があったのか-。(敬称略)
ストーリーズ
横田和幸
6年目を迎えた夏、突然終わり
17年7月4日、火曜日。広島から1つの重大発表があった。
「森保一監督 退任のお知らせ」と題したリリースの内容は「7月3日をもちまして退任いたしましたので、お知らせします」。
第17節を終え、2勝4分け11敗の17位。極度の成績不振で、J2降格の足音が聞こえていた。シーズンの折り返しで、指揮官は責任を取った。
リリースには森保の最後のメッセージが記された。
「プロは結果がすべての世界。喜んでいただけるような結果を残すことができず、申し訳ありません。3度の優勝で喜びを分かち合えたことは、いい経験となりました。今は感謝の思いしかありません」
12年、当時43歳の若さで、森保は古巣広島で初めて監督業に挑戦した。
いきなり、J1優勝。2年目、4年目も優勝。
16年までの5年間で3度の日本一は、地方クラブが起こした奇跡だった。
その黄金時代は6年目を迎えた夏、終わりを告げることになる。
17年は開幕6試合目が初勝利で、わずか2勝で迎えた7月1日、埼玉スタジアムでの浦和戦が、最後の指揮になる。
前半で2失点したが、後半にFW皆川佑介らの3得点で逆転。だが、後半40分に同点を、ロスタイムに勝ち越しを許す、壮絶な逆転負け。4連敗の瞬間、森保の運命は決まった。
当時56歳で広島の社長を務めた織田(おりた)秀和は、試合翌々日の7月3日、広島市内のホテルに森保を呼び出した。強化部長の足立修を含めた3者会談は約30分後、退任という結論を出した。
当時のクラブ発表は、織田の生々しいコメントが添えられている。
「森保監督から成績不振による辞意の申し出がありました。クラブとしては慰留をしましたが、本人の意思が固く、辞任を了承しました。チームのレジェンドともいえる森保監督の辞任を了承することは、苦渋の決断です」
「解任ではない」クラブの配慮
現在J2熊本のGMを務める織田は、5年たった今も「解任ではない」と重ねて、当時を振り返る。
「浦和戦の何試合か前から、このままで大丈夫かという議論が、クラブ内にあったのは事実。本人もいろんな思いがあったかもしれないが、プロだったら、そういう(退任の)時が来るのは覚悟していた。『結果が出ていないので、仕方ない』という、本人の思いを受け止めました」
ただ、当時を知る複数の関係者は、森保を呼び出した時点で、クラブは解任の結論を出していたと証言する。解任を悟った森保が、それを受け入れての辞任--が真相だった。
クラブが「退任」で発表したリリースに、織田があえて「辞任」の言葉を添えたのは、レジェンドの経歴に傷を付けないための、配慮がうかがえる。森保が育った広島とは、いい意味で人情派の集まりだった。
森保が途中で辞めた17年、後任指揮を横内昭展、ヤン・ヨンソンとつなぎ、最終的に15位でJ1残留を果たした。この不振は6位に終わった前年、予兆が見え始めていた。
16年はDF佐々木翔が3月、右膝の大けがでこの後、約2年の離脱を余儀なくされる。FW浅野拓磨は7月、アーセナルへ移籍。
19ゴールで得点王になったナイジェリア人のピーター・ウタカ、佐藤寿人のFW2人が16年末、それぞれ東京、名古屋へ。通算258試合出場のMF森崎浩司は、現役を引退した。
迎えた17年、DF塩谷司が6月にUAEのクラブへと移籍した。引き抜きに慣れていた森保だったが、主力の顔ぶれがあまりにも大きく変わり、チームは機能不全に陥った。
長期政権がゆえの、油断があったのかもしれない。織田は重い口を開く。
「一概に森保だけの責任ではないが、今、思えばメンバーが固定されたことも、不振の一因だったのかもしれない。残念ながら、森保自身がもう1度、選手を奮い立たせられるだけの、モチベーターになれなかった」
森保の退任が決まった7月3日は、全体練習はオフだった。翌4日、広島・吉田町に集まった選手に、監督交代の事実が伝えられると、一部の選手は涙を流したという。
最後の年こそ崩れた広島だったが、なぜ、森保は選手から圧倒的な支持を受けたのか。広島の前身マツダ時代の先輩として、当時で約30年の付き合いがあった織田は言う。
「練習ではグラウンドに一番早く来て、最後までいた。選手の居残り練習まで全部を見た。すべて把握した上で、森保は次の試合の11人を選ぶ。公平で、選手から文句は出なかった」
「将来良い指導者になる」と予言
長崎日大を卒業した森保は87年、マツダに入った。
当時監督のオフトにボランチで認められ、その後に誕生したオフトジャパンで代表入りする。93年Jリーグ元年以後、広島のスターになり、ドーハの悲劇まで経験した。
当時広島の総監督だった今西和男が、森保の将来を予言したことがあった。
「(95、96年に広島を指揮した)ビム・ヤンセン監督は、攻撃が好きで、選手に自由にしろという方針だった。それに、盧廷潤(ノ・ジュンユン=韓国代表MF)がミーティングで猛反発した。すると、森保だけが『監督は期待して、あえて自分たちで判断しろと言ってくれている』と受けて立った。(対話でチームをまとめる姿に)将来、いい指導者になると感じた」
98年にオフトが率いた京都へ、期限付きで移籍した。翌99年から京都に完全移籍する予定だったが、広島のサポーターが署名活動を行い、猛反発。99年から復帰が決まった。
サポーターによる人事の変更は極めて異例だ。
W杯最終予選の初戦を落とし
広島の監督退任から約3カ月後の17年10月、森保は東京五輪代表監督の就任が決まった。広島を去った時の心境を、初めて肉声で明かしている。
「いつか誰かに、バトンタッチする時が来ると思っていたし(退任の)覚悟はあった。自分が広島に育てられたという思いに、変わりはない。辞めたからといって、広島を嫌いになったことは1度もない」
森保は、自ら職場を途中で放棄はしない。一方、いつでも辞めるという「覚悟」を持っていたことは、織田の言う通りだった。
7大会連続出場を目指した昨年9月からのW杯アジア最終予選。開幕1勝2敗となった時点で、森保は解任の危機に立たされた。
新戦力の起用は多くはなく、メンバーを固定しすぎる-。一部の批判は、広島時代と似ていた。それでも、今年3月24日のオーストラリア戦で6連勝を飾り、W杯切符をつかんだ。
歓喜から一夜明け、本人は解任危機が訪れた昨秋の思いを振り返った。
「本当に(代表監督が)自分でいいんだろうか、という思いがあった」
オマーンとの最終予選初戦に敗れた際、森保自身が「同情で判断を遅らせてほしくない」と、日本協会に解任を迷うなという異例の進言をしていた。やはり、強い覚悟はあった。
今年5月3日、J1リーグの広島-柏が行われた古巣の本拠地Eスタに、クラブ創立30周年のゲストで招待された森保は、観客の前であいさつした。
「私は広島で選手、指導者として、すばらしい充実の時間を過ごさせていただいた。W杯では、日本歴代最高のベスト8以上の記録をつかみとりたい」
広島での成功と失敗があったから、あのW杯予選を乗り越えられた。どんな重圧、批判があっても、ぶれることがない指揮官は、強い覚悟を持って、カタールへと向かう。