5日に閉幕した東京パラリンピックで、日本の障がい者アスリートの現在地を示す上で象徴的だったのが車いすバスケットボール男子決勝だった。敗れはしたが前回王者の米国を60-64と追い詰めた日本の豊島英主将(宮城MAX)は、「チャレンジャーの気持ちで臨んで、もう1歩で届きそうという希望も見えた」と話した。日本50個目のメダルは銀色だったが、意義深い金字塔を打ち立てた。

新陳代謝を促し、下肢障がいに起因する二次的な疾病の予防に役立つとして車いすバスケが障がい者のリハビリに利用された歴史は長い。パラリンピックでは1960年第1回ローマ大会から実施。日本が初参加した64年東京大会のエピソードとして語り継がれるのが、完敗した米国戦だ。

第2次世界大戦の傷痍(しょうい)軍人らの間で競技が急速に普及した米国は精鋭集団で、就職もして社会参加に積極的。当時の記録映像は「(米国の)仕事を持っている自信と明るさに敗れたのだともいえる」と語り、日本選手団長だった故中村裕(なかむら・ゆたか)医師は日本選手の大半が自宅や施設での療養者で「元気がないのは当然だった」と著書で述懐した。

国内では60年ごろに病院などに紹介された車いすバスケは、障がい者の意識を変えた東京大会後に普及が加速した。70年に日本選手権の前身大会が初開催され、75年には国内初の車いす競技団体となる日本車いすバスケットボール連盟が発足した。

国内の障がい者専用スポーツ施設で最古の大阪市長居障がい者スポーツセンターが98年に発表した調査結果では「車いすバスケをしての効果」として「明るくなった」「日常生活に自信がついた」などの回答があった。

リハビリが高じた選手の裾野が広がり、現在は全国で70チーム以上が登録されている。協賛企業が10社に上り「天皇杯」の冠が付いた日本選手権でしのぎを削る好手たちから、日本代表がえりすぐられる。

53人の日本選手が金1銀5銅4を獲得した64年東京大会のメダル数は、254選手が出場した今大会で金13銀15銅23に膨らんだ。米国との決勝で8得点18リバウンドと奮闘し、様変わりした障がい者アスリート像を示した22歳の鳥海連志(パラ神奈川SC)は「ここから新しい日本が進んでいく」と先を見据えた。