視覚障害の米岡聡(35=三井住友海上)が、初出場で銅メダルを獲得した。スイムを2位であがった米岡は、バイクで4位に後退したものの、得意なランで1人抜き、1時間2分20秒でゴールした。この日、トライアスロンに2個目のメダルをもたらした。

米岡は10歳の時に網膜剥離を発症。25歳で完全に視力を失った。マラソンは20歳から取り組んでいて、27歳の13年から本格的にトライアスロンに参戦。得意のランを生かして世界シリーズでも上位に名を連ねた。

19年からは同じ所属のエリートトライアスリート、椿浩平(29)をガイドに迎えた。15年日本選手権3位などの実績を持つトップ選手だが、16年に脳に髄芽腫を発症。出場のためにポイントが必要な東京五輪は間に合わないと判断し、ガイドに名乗り出た。トップ選手のアドバイスは、的確だった。単なる「目」だけではなく、レース分析の「頭脳」としても頼れた。

トライアスロンのガイドは、スイム、バイク、ランのすべてを1人でこなさなければならない。スイム0・75キロ、バイク20キロ、ラン5キロは五輪距離の半分とはいえ、バイクは2人乗りのタンデムを使うなど高い技術と経験が必要。海外のトップ選手のガイドは五輪や世界選手権のメダリストが務めることも珍しくない。

強力なサポートを得て、米岡は覚醒した。世界ランクは11位だったが、トップまでの差は小さい。徹底した暑さ対策とコースに合ったレースプランで、メダルへの自信を深めた。レース後には「絶対に取れると思っていた」と言った。

3位で迎えたランの3周目(全4周)。後方に迫る4位を確認すると、椿は米岡に声をかけた「この1周でケリをつけよう」。ギアが変わり一気にスピードが上がった。「後ろに諦めさせたかった。米岡さんが応えてくれた」と椿。最終周までもつれずに、銅メダルを決めた。

銅メダルを胸にした米岡は「ただただ、うれしい」と言った。椿も「2人でここまでやれて、よかった」と話した。ただ、椿の挑戦は終わらない。東京五輪は断念したが、24年パリ五輪がある。「この経験をパリにつなげたい。最高の1歩にしたい」。パラリンピックをステップに五輪を目指す椿の言葉を、米岡はうれしそうに聞いていた。