自転車の女子オムニアムで初出場の梶原悠未(24=筑波大大学院)が、銀メダルを獲得した。1日4種目を走る過酷なレースで、第4種目の終盤に落車。すぐにレースに復帰し、総合ポイントで2位を死守した。 日本女子の自転車トラック種目では、史上初のメダル獲得となった。24年パリ五輪での金メダル獲得へ、決意を新たにした。

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栄光の金メダルまで2ポイント差で迎えた最終種目。梶原は「引きつった笑顔かもしれないけど、一生懸命の笑顔で」とペダルを踏んだ。ポイント獲得のラストチャンスにかけようとした残り9周、場内に悲鳴が響いた。20年世界選手権でも第3種目で落車転倒しながら復帰し、優勝。すぐに立ち上がり集団に復帰したが、再び奇跡を起こすには、あまりにゴールが近すぎた。自転車女子として初めてのメダル獲得に「メダルを取れたのはうれしい。でも、優勝を目標にしていたので、悔しい」と複雑な思いを打ち明けた。

「母と…母と毎日、吐くくらいの苦しいトレーニングをしてきました」。二人三脚で頂点を目指してきた、母有里さんを思うと、涙があふれた。高校入学を機に「全国で1番になれる競技を」と、競泳から自転車競技へ転向。その競技を一緒に考えてくれた。筑波大1年から「練習を手伝ってほしい」と申し出た。梶原自ら練習メニューを組み、母は食事だけでなく時にはバイクを誘導し、悩みや目標も共有してきた。一心同体で戦ってきた。

「世界女王になって東京五輪に出る」。「東京五輪で金メダルを取る」。目標を立て、実現する思考力と実行力は両親の教えだった。3歳のころには毎年、具体的な目標を掲げるよう育てられた。コロナ禍で国際大会が開かれない中で、男子のロードレースに参加。“世界のスピード”を意識するためだった。自分で考え、実行し結果を出す。24年染み付いた梶原家の教えで世界と戦っていた。

今大会、自転車だけが室内競技で観客の声援を受けられた。「本当に苦しい時に背中を押してくれた」。表彰台で両手を振って観客に感謝を伝えた。ただ、万雷の拍手の中で確信した。「銀メダルは率直に悔しい。次のパリで、金メダルを狙いたい」。果たせなかった夢は、3年でかなえてみせる。【山本幸史】

<オムニアムとは>

オムニアムは中距離4種目を1日で行い、総合得点で順位を決める。

第1種目スクラッチ 女子7・5キロ(30周)の順位を争う。梶原は2位発進。

第2種目テンポレース 女子は7・5キロを走り、獲得点数を争う。毎周回1位通過のみ1点。梶原は10周目の点を獲得して5位でゴール。暫定3位に。

第3種目エリミネーション 2周ごとに最後尾だった選手が脱落。梶原は集団の外を回りながらも最後2人のスプリント争いまで残り2位。トップから2点差の暫定2位に。

第4種目ポイントレース 3種目までのポイントを持ち込み、女子は80周で争う。10周回ごとに1位通過で5点、2位3点、3位2点、4位1点、最終周回は点数が2倍に。梶原は30周目で2点獲得も、残り9周で落車。ルール上、ほかの選手の5周以内に落車した位置に戻れば、周回遅れとされない。戻れなければ棄権だった。銅メダルのウィルト(オランダ)とは総合点で2点差と、結果的に30周目の2点と速やかに戻ったことが奏功し、女子史上初の銀メダル獲得となった。