日刊スポーツ評論家のセルジオ越後氏(77)が、日本サッカー殿堂入りを果たした。来日後、日本全土に足を運び、長年に渡って普及に尽力したことなどが評価された。本紙にコラムを寄稿している学校法人国士舘理事長の大澤英雄氏(87)も、指導者となって60年以上の実績が評価され、ともに名を連ねた。掲額式典は、日本サッカー協会の創立記念日である10日に行われる。ニッカンと関わりのある2人の功労者に、殿堂入りまでの道のりを聞いた。【取材・構成=盧載鎭】

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日本サッカー界で最も名誉ある「日本サッカー殿堂の掲額者」に名前が挙がった。応援してくれた方、家族、先生方、教え子たち、国士舘大学関係者の皆さまなど、これまで支えていただいたすべての方に感謝の意を伝えたい。60年以上になる指導者としての実績などを日本サッカー協会(JFA)が認めてくれたと思うと、感極まり、気持ちを新たに襟を正している自分がいる。

中学1年の時からだから、ボールを蹴り始めて75年。昔は体育の教師や若い先生がサッカーを教えていた。ヘディング1つにしても、指導者によって教え方が違う。「どれが正しいのだろう」との疑問が常にあった。これからサッカー選手を目指す子供のために、自分が指導者になろう。そのためには東京に行くしかない。地元の函館師範学校(現北海道教育大)進学を勧めた家族の反対を押し切って東京に向かった。

東京教育大(現筑波大)は受験に失敗し、日体大に入るつもりだった。願書を提出するため校門前で友人と待ち合わせして、日体大に向かった。約束の時間を間違えて1時間、待つ間にグラウンドを見回った。ゴールもないし、サッカーができる環境ではないと思った。願書を出さずに東京に住む親戚の家に向かった。偶然、電車の中づりに「国士舘短期大学体育科新入生募集」の広告が目に入った。

その足で行ってみた。グラウンドにはきれいにラインが引いてあって立派なゴールも立っていた。警備の方に「サッカー部があるんですか?」と尋ねると「もちろんだよ」。「日体大の願書ですが、これをこのまま出してもいいですか?」「いいよ。そのまま出して」。2日後に合格の通知が来た。

本来は大学を卒業して、地元の高校の教員になる予定だった。内定をもらって卒業を待つのみ。しかし卒業できなかった。当時、柴田■(■は徳の旧字体)次郎舘長に呼ばれて「君は私の講義を誠実に聞いていないので、今回卒業はできません」と言われた。他の仲間と同じ回数の講義を聴いてリポートも出したのに、私だけ卒業できず、内定は取り消しになった。結局1960年(昭35)7月卒業になり、大学に「お手伝い」として残った。

「助手」にもなれず「お手伝い」の仕事には給料がない。年間4000円の手当が収入のすべてだった。夏に氷代2000円、冬にモチ代2000円。とても生活できず、毎週水曜日だけ大学の許可を得て講師のアルバイトをして食いつないだ。だが、もし、順当に卒業していたのなら…、4000円の手当に我慢できていなかったら…。東京教育大に合格していたら…。願書をそのまま日体大に提出していたら…。今思うと、国士舘だからここまで来ることができたし、感謝の気持ちしかない。

国士舘大に入学した時、サッカー部はなかった。入部希望者も2人だけ。私は初代サッカー部のキャプテンになって多くの出会いに恵まれた。キャプテンになったのは、入部希望者2人でジャンケンして決めたもの。その時、パーではなくチョキを出していたら、私はサッカー部のマネジャーになっていたはずだし、今の私はいないかもしれない。

逆境があり、偶然が重なり、貴重な出会いもあった。多くの経験を積み、小学生の大会に関わる幸運にも恵まれた。いま一度、私の成長に関わっていただいたすべての方、すべての出会いに感謝の気持ちを伝えたい。(学校法人国士舘理事長)

(ニッカンスポーツ・コム/サッカーコラム「サッカー人生70年 国士舘大理事長 大澤英雄」)