サッカー元日本代表GK川口能活(42=J3相模原)が、日刊スポーツ静岡支局の特別インタビューに応じた。富士市に生まれ、天間小3年でサッカーを始め、中学、高校時代は清水(静岡市清水区)でボールを追った。いまだ衰えぬプレーへの情熱。故郷への思い、真面目一徹の生きざまを前編と後編で紹介する。

 

 神奈川・相模原市内のグラウンド。川口と約15年ぶりに再会した。2002年のW杯日韓共催大会以来だった。

 「ようこそ、相模原へ。あれ、髪形が変わりましたね。誰かと思いましたよ~。元気ですか」

 屈託のない笑顔、物腰の柔らかさは、当時と変わらない。そして、「故郷への思い」からうれしそうに語った。

 「実家の玄関を出ると、左側に富士山。近くには茶畑、市内には製紙工場の煙突がたくさんある。ずっと残る心の風景です。高校から寮生活で実家を離れましたが、どこにいても『富士山はどの方角かな』と考えます。サッカーを始めて、小学校のグラウンドできつい練習をしていた時も、富士山に見守られてきました。だから富士山を見ると、初心に戻れる気がします」

 サッカーとの出会いは9歳。3歳上の兄から勧められて始めた。

 「富士市では野球をやる子供の方が多かったですね。当時は大昭和製紙の野球部があって、みんながそこを目標にしていました。でも、僕はサッカーにはまりました。ソフトボール、バスケットもうまくこなせて、短距離、長距離走も1番になれた。ただ、サッカーだけは、思うようにいかなかった。それでも、続けていればリフティングも少しずつできるようになった。自分のものを全て出して、成し遂げる。この感覚が合っていました」

 GKは小4から。ある試合で選手が不在になり、「やってみろ」と言われたことがきっかけだった。

 「たまたまGKをやったら、試合に勝てました。そこから1つ上のチームでやり始め、点を取られると文句を言われるので嫌な時もありましたが、ユニホームの色が1人だけ違う。試合には出られるし、うれしいという感じでしたね」

 次第に頭角を現し、高学年になると富士市選抜の富士FCでプレーを始めた。その頃、富士総合運動公園で日本リーグの試合を見て刺激を受けていた。

 「富士FCで清水FCと前座試合をしてから、ヤマハやホンダ、読売クラブの試合を見ました。富士市サッカー協会の人が、そういう機会を作ってくださった。当時、レベルの高いサッカーを見られたのは、W杯とトヨタ杯、たまにある日本代表と全国高校選手権ぐらいでした」

 海外の有名選手にも憧れたが、一番のヒーローは清水商のGK真田雅則(故人、元J1清水)だった。

 「すごく影響受けました。前に出るプレースタイルで、空中戦も強かった。『格好いいな』と思って、マネをしていました」

 中学は、清水の東海大一中(現東海大静岡翔洋中)に進学。富士市出身ならではの思いがあった。

 「『富士市から来て、サッカーがうまいのか』という見方をされました。清水はサッカー文化が進んでいて、商店街にサッカーボールのオブジェがあったりする。そのプライドからでしょうが、僕も負けたくない思いがありましたね」

 そんな周囲の疑念を実力で覆した。県選抜にも選ばれ、進学した清水商(現清水桜が丘)では、1年から試合に出た。3年時の93年にJリーグが開幕。次第にプロを意識し始めた。

 「当初は大学進学を考えていましたが、2年の時にU-19代表に選ばれ、アジアユースに出場しました。準決勝で韓国に敗れましたが、手応えはありました。『この経験は、プロに行かないと生かされないのでは』と思うようになり、マリノス、ヴェルディ、ジュビロからは誘いがありました。監督の大滝(雅良)先生からは特に何も言われず、直接、関係者の方からオファーがありました」

 選んだのは、日本代表の松永成立が正GKで君臨していた横浜だった。

 「自分がより成長できる厳しい環境を求めていたからです。松永さんはまだ32歳で、僕は『2、3年は試合に出られない』と覚悟していました。もう1つ、清商OBの山田隆裕さん、三浦文丈さん、スカウトの佐野達さんがいたことも理由です。あの厳しい空気感を知っている方々がいたことは、大きかったです」

 その後、川口は五輪、W杯に出場し、栄光のロードを歩んだ。だが、その過程には幾度もの苦しみがあった。挫折してもトレーニングに励み、食生活から自分を律してきた。真面目に愚直に。後編では、自身の生きざまを語っている。【取材・構成=柳田通斉】

 

 

 

川口能活の年表

 1975年(昭50)8月15日 富士市に生まれる。

 84年 天間小3年の9歳でサッカーを始める。

 88年 東海大一中に進学。3年連続で全国大会出場

 91年 清水商に進学。1年からレギュラーに。主将の3年時に出場した全国選手権では、準決勝で城彰二を擁する鹿児島実を破り、決勝では前年度王者の国見に2-1で勝利。5年ぶり3度目の優勝に貢献した。

 94年 Jリーグ横浜に加入。2年目から正GKに。

 96年 7月、アトランタ五輪に出場。1次リーグのブラジル戦で28本のシュートを浴びながら無失点に抑え、1-0の勝利に貢献した(マイアミの奇跡)。8月にはA代表に初招集。

 97年 W杯フランス大会アジア最終予選で活躍し、日本のW杯初出場に貢献。

 98年 W杯フランス大会の日本代表に選出。1次リーグ3試合にフル出場。

 01年 イングランドのポーツマスに移籍。

 02年 W杯日韓大会の日本代表に選出。出場機会はなかった。

 03年 デンマークのFCノアシェランに移籍。

 05年 J1磐田に移籍。

 06年 W杯ドイツ大会の日本代表に選出。1次リーグ3試合にフル出場。

 09年 9月に右脛骨(けいこつ)骨幹部骨折で全治6カ月。

 10年 W杯南アフリカ大会の日本代表に選出。出場機会はなかった。

 14年 J2岐阜に移籍。2シーズンで43試合出場。

 16年 J3相模原に移籍。

 17年 プロ24年目。