まるで目の前に巨木が倒れてきたような衝撃だった。あのタイソンが横倒しにダウンしたのだ。

ダグラスからダウンを奪われKO負けしたマイク・タイソンはダメージからレフェリー(左)に寄りかかる(1990年2月11日)
ダグラスからダウンを奪われKO負けしたマイク・タイソンはダメージからレフェリー(左)に寄りかかる(1990年2月11日)

『鉄人』と呼ばれた完全無欠の王者が、つぶれたうつろな目で、コーナーに転がったマウスピースを探している。グローブをはめた右手で何とかつかみ上げて、辛うじてその端っこを口でくわえたところで、レフェリーの10カウントが入った。

負けるはずのない男が、見るも無残に負けた。私は記者席で立ち上がり、陣営に抱えられた元王者の姿をぼうぜんと見つめていた。世紀の大番狂わせが起きたというのに、リングの下は不思議なほど静かだった。予期せぬことを目にしたとき、人は沈黙するのだと思った。「歴史が変わった!」。放送席の実況の声がやけに大きく聞こえた。

1990年2月11日、東京ドーム。あの時、プロボクシング統一世界ヘビー級王者マイク・タイソン(米国)にいったい何が起きていたのか。37戦全勝33KO、うち25勝は3ラウンド以内の決着。「もはや地球上に敵はいない」とまで言われていた23歳の絶頂期の無敵王者が、なぜ29歳の伏兵ジェームス・ダグラス(米国)に完膚無きまでに打ちのめされたのか。あれから今日で丸31年。来日から密着した私の取材ノートから敗因を探ってみた。

タイソン一行は決戦の26日前の1月16日に来日した。成田空港は大雪に見舞われ、予定より2時間も遅れて到着ロビーに姿を見せた。ボディーガードやスタッフを引き連れ、真っ白なミンクのロングコートに身を包んだタイソンは、まるでどこかの王様のようだった。ちなみにコートの値段は8万ドル(当時のレートで1800万円)。ジーンズに革ジャンというラフな格好で初来日した2年前の青年とは別人のように見えた。

身なりだけではない。取り巻きの顔ぶれもガラリと変わっていた。白人マネジャーのビル・ケイトンと決別し、大物プロモーターながら幾多の金銭トラブルで悪評も根強かったドン・キングと契約。トレーナーはデビューから二人三脚で歩んできた兄弟子でもあるケビン・ルーニーから、経験の浅いキング傘下のアーロン・スノーウェルとタイソンの古いジムメートだったジェイ・ブライトの2人体制に。2年前に傍らにいたロビン夫人とは離婚し、代わりに横にいたのは“コーディネーター”と称する幼なじみの黒人男性たち。

拳ひとつで70億円を稼ぎ出した王者に、さまざまな思惑を持つ人々が群がる。キングは「チーム・タイソン」と声を張り上げて一丸をアピールしたが、チームの中に雇い主のタイソンを制御できる人間がいないことが気になった。そもそも想像もつかないほどの青い札束に埋もれて、果たしてボクサーは戦い続けることができるのか。そんな疑問も頭によぎった。

来日直後の会見でタイソンは金歯を光らせて言った。「金が目的ならもう稼ぎ尽くしたから、あとは死ぬしかない。オレの仕事は目の前の試合に全力を注ぐこと。オレは真のファイターに変身を遂げたのだ」。

そのわずか数時間後の翌17日午前3時、タイソンは暗闇の中、たった1人で国会議事堂近くの雪で凍った約4キロのロードワークコースを激走した。これを後で知ったトレーナーのスノーウェルは「1時間早い」と怒った。以前はトレーナーの指示通りに動いていたが、今回はあくまで自分の意思で行動する。早々に言葉通りの「変身」を印象づけた。しかし、その翌日、最初の異変が起きた。【首藤正徳】(ニッカンスポーツ・コム/スポーツコラム「スポーツ百景」)

90年2月、WBA・IBF・WBC世界ヘビー級タイトルマッチの10回、タイソン(右)はダグラスの強烈パンチでダウンを喫しKO負けする
90年2月、WBA・IBF・WBC世界ヘビー級タイトルマッチの10回、タイソン(右)はダグラスの強烈パンチでダウンを喫しKO負けする
ダグラスとの統一ヘビー級タイトルマッチのため来日したマイク・タイソン。右から2人目はプロモーターのドン・キング氏(1990年1月16日)
ダグラスとの統一ヘビー級タイトルマッチのため来日したマイク・タイソン。右から2人目はプロモーターのドン・キング氏(1990年1月16日)
WBA・IBF・WBC世界ヘビー級タイトルマッチ合同記者会見で同席したマイク・タイソン(左)とジェームス・ダグラス(右から2人目)
WBA・IBF・WBC世界ヘビー級タイトルマッチ合同記者会見で同席したマイク・タイソン(左)とジェームス・ダグラス(右から2人目)
ダグラスとの統一ヘビー級タイトルマッチのため来日し、会見で「一番」と自らのサインが書かれたボード見せるマイク・タイソン(1990年1月16日)
ダグラスとの統一ヘビー級タイトルマッチのため来日し、会見で「一番」と自らのサインが書かれたボード見せるマイク・タイソン(1990年1月16日)