選手や指導者の力量を、取材する側が正しく表現するのはとても難しい。そう考えるようになったのは、大相撲担当時代に大鵬さん(享年72)に言われてからだった。

 大鵬さんは、マスコミが天才少年、天才バッターなどと見出しをつけ、大きく報道すると、自身の思い出をまじえて話をしてくれた。「天才という言葉をマスコミは簡単に使うけれど、言われた方はむなしくなることがあるんだよ」。大鵬さんの顔は、正確に理解してもらいたいという真剣味にあふれていた。言葉を選びながら説明してくれた。

 大鵬さん 記事にする方は天才大鵬と書いたもんだが、こっちは『冗談じゃない』という思いだった。まるで才能だけで勝っているみたいじゃないか。わしは才能で横綱になったんじゃない。みんなが知らないところで、何倍も努力をして、辛い思いを乗り越えてきた。その苦しさを知らずに、天才の2文字で片付けられることへのむなしさがあった。

 天才とは、生まれつき備わっているきわめて優れた才能、ということだ。それを、取材する側は簡単に採用する。その力士の、その選手の努力する姿、苦悩する実像を知らない、もしくは深く知ろうとしない。便利な2文字を使って、手っ取り早く表面を取り繕ってしまう。

 大鵬さんは言っていた。「わしの努力を見て、それを伝えて欲しかった。だから、あなたも簡単に天才なんて言葉を使っちゃいけない。その背景を知る努力をしなさい」。

 天才と言われれば誰だって喜ぶだろうと、理由もなく決め付けていた。そんな短絡的な考えは、自分の人間的な薄さを認めているようなものだった。大鵬さんが張本勲さんについて触れたことがあった。「張本さんは大やけどで手をケガしている。それでも、人に言えない苦労をしながら、3000本もヒットを打った。その努力を知ろうとせず、天才だから、とする世の中に対して『これだけ努力をしても、それでも人は才能という』と、言ったことを覚えているよ」。

 大鵬さんに負けた力士が、「大鵬は天才だから」と言ったことを知り、大鵬さんは悲しかったという。「そうじゃないんだよ、才能の差じゃない。わしはそれだけ稽古をしたんだ。負けた方はそれを認めないで、天才だから、才能があるからと言い訳をする。それで恥ずかしくないのかと、思っていた」。

 「天才は褒め言葉じゃないよ」。そんなこと考えたこともなかったが、大鵬さんの言わんとすることを、こうして十数年かけて考えてきた。ちまたには、将棋や卓球、サッカー、野球に天才○○が、たくさん出てきた。天才の出現は、その分野を活性化する。伝える側も天才の言葉に、その選手をおとしめようとする意図はない。その上で、選手の活躍が本当に天才によるものなのか、深く知るために取材を尽くさないといけないと感じる。

 大鵬さんの、のどの奥から響いてくる低音で「そんなもんじゃないんだよ」といういつものつぶやきが、今も頭から離れない。【井上真】