ロンドンで行われている陸上の世界選手権男子100メートルに出場した多田修平(21=関学大)は、世界記録を持つボルト(ジャマイカ)の走りを同組で体感する幸運に恵まれた。それも予選と、敗退した準決勝の2本。それぞれ10秒19、10秒26と好記録は残せなかったが、にじみ出る充実感は真夜中のテレビ越しに伝わってきた。

 現地で取材する同僚からも「ニコニコ、いつも通り。受け答えの様子は何も変わっていないよ」と様子の報告を受けた。多田は落ち込むというより「東京五輪までに筋肉を増やして、世界と戦える力をつけたい」と前向きに捉えたようだ。

 この3カ月ほどで「関西」から「全国」を跳び越え、「世界」にまで一気に進んだ。6月10日の日本学生個人選手権準決勝では、追い風4・5メートルの参考記録ながら9秒94。公認記録範囲内の風だった決勝では10秒08の自己記録をマークした。もちろん、それまでも陸上界で名は通っていたが、桐生祥秀(東洋大)やケンブリッジ飛鳥(ナイキ)、山県亮太(セイコーホールディングス)らに比べれば、その知名度は雲泥の差だった。

 私が初めて多田を取材したのは、16年5月13日。10秒33で関西学生対校選手権を制した際の原稿が、今もウェブサイトにある。その時のコメントはこうだ。

 「絶対に負けたくない。できることをやっていくつもり。出し尽くして、勝ちにいきたい」

 それはリオデジャネイロ五輪を目指す桐生ら、関東の学生に向けられたものだった。取材時点では「力強いな」「頼もしいな」と思ったはずだが、数字は桐生らと比べれば平凡で、あまり記憶に残らなかった。まさか1年後の日本選手権でケンブリッジ、桐生、山県らに勝ち、決勝2着で世界選手権の切符をつかむとは思っていなかった。今となれば、あのコメントも“むちゃなはったり”ではなかったことになる。

 そんな男は日本選手権前後からどれだけの注目を受けても、ニコニコ、いつも通り。6月26日の日本代表発表会見後もその足で大阪・堺市内から約1時間半かけ、兵庫・西宮市の大学に向かったと周りに聞いた。陸上部は休み。それでも体のケアを行う姿に、チームメートも「何も変わっていないですよ」とうなずく。唯一変わったのは「インタビューの受け答えの物まねが(陸上部内で)流行っているぐらいですかね」というからほほえましい。

 多田のそういった姿勢は、決して自分を飾ることのないコメントにも通じる。世界選手権を前にした7月3日、関学大。約1時間半の会見で定番の「9秒台への意欲」を尋ねられた。ニコニコとした表情は変わらずとも、言葉には力が込められた。

 「僕は、そんなに『(日本人で)一番に出したい』というのはなくて。練習で鍛えていって『自然と出たらいいな』という感覚なんです。(9秒台を)出したいとは思っているけれど『一番に』というのはないですね」

 母校である大阪桐蔭の花牟禮武監督(46)は多田と「ハイクリーンで120キロを上げられたら、9秒台やな」と笑って話しているという。「ハイクリーン」は地面に置いたバーベルを、肩の位置まで一気に上げるトレーニング。多田は体重66キロながら、約100キロを持ち上げるという。両足で地面を踏み、その反発を生かして足の裏から下半身、上半身へと力を伝えていく作業で、本人も「ハイクリーンと走りは本当につながっていると思います」とうなずく走りの土台。2人が話す「あと20キロ」という具体的な数字は、9秒台への距離感を端的に示している。

 多田は現在地をこう見ている。

 「リオ五輪メンバーには日本選手権では勝ったけれど、実力的には負けていると思う」

 発展途上な自分を冷静に見つめるからこそ、「日本人初の9秒台」という称号にも、強いこだわりはないのだろう。

 ロンドンでのレース後にはこう分析した。

 「ボルト選手とスタートで差をつけられなかった。そこが僕の想定外。中盤でかわされた。力が足りないな」

 ずっと掲げてきた目標は、20年東京五輪での決勝進出。伸び盛りの大学3年生は世界最高峰での経験を力とし、自分のペースで3年後を目指すだろう。「日本人初の9秒台」を誰が出すのかは、もちろんワクワクする。でも、それだけではない。20年東京五輪への長期的な視点も、捨てられない。【松本航】


 ◆松本航(まつもと・わたる)1991年(平3)3月17日、兵庫・宝塚市生まれ。兵庫・武庫荘総合高、大体大とラグビーに熱中。13年10月に大阪本社へ入社し、プロ野球阪神担当となり、15年11月から西日本の五輪競技を担当。