アメリカンフットボールで日大選手による悪質な反則行為を受けた関学大が17日、兵庫・西宮市の同校で会見を行った。

 日大アメフト部の歴史は以下の通り。

 ◆日大フェニックス

 1940年に創部。50年代に最強を自負したオール日大「不死鳥倶楽部」由来の「フェニックス」の名が今も残る。55年に甲子園ボウル初出場で優勝。

 ◆篠竹監督で黄金時代

 59年に篠竹幹夫氏(故人)が監督に就任以降、大学アメフト界を引っ張る。70年以降の関東大学選手権(リーグ戦)では、77〜84年の8連覇、86〜90年の5連覇など同氏就任期間中に17度優勝。甲子園ボウルも78〜82年の5連覇を含む17度優勝。社会人王者と対戦した日本選手権ライスボウルも、88〜90年の3連覇など4度優勝している。88〜90年は関東大学選手権、甲子園ボウル、ライスボウルと、3年連続3冠に輝いた。

 ◆低迷、内田監督へバトン 

 90年代に入ると、篠竹氏の体調問題なども重なり、部員は30人足らずまで減少し、低迷を招く。03年に篠竹氏が定年で退任。日大職員だった内田正人コーチが監督に昇格した。初年度は1部リーグ最下位だったが、コーチを増やし付属校の人材を勧誘するなどの強化策で、07年には17年ぶりの関東王者となる。しかしこの年の甲子園ボウルで関学大に敗れると、内田監督は号泣。以降11、13、14年と出場の甲子園ボウルでいずれも関学大に敗れ4連敗となる。

 ◆名門復活の矢先…

 内田監督は16年に1度勇退するが、リーグ戦低迷を受けて1年で復帰。猛練習でチームを再建し、甲子園ボウルでは関学大に23-17で逆転勝ちで、27年ぶりの大学王者となる。インタビューで内田監督は目を赤くし「長かったですね…」と声を詰まらせた。1月のライスボウルこそ富士通に破れたが、名門復活の矢先に今回の騒動が発生した。