平成のオリンピック(五輪)史で顕著なのは、女子選手の躍進だ。昭和最後の88年ソウル大会は日本選手団のうち女子は71人、全体の4分の1ほどだった。日本女子が初めて五輪に参加したのは昭和最初の1928年アムステルダム大会。その後少しずつ増えはしたが、昭和の五輪は「男子の大会」だった。

それが、96年アトランタ大会では男子160人に対して女子150人と肉薄。04年アテネ大会では女子171人と141人の男子を逆転した。16年リオデジャネイロ大会でも男女はほぼ同数。昭和であった格差は消え、五輪は平成で「男女の大会」になった。

女子の躍進はメダル数にも表れている。88年ソウル大会まで日本が参加した15大会で、金メダルは男子83個に対して女子は4個とわずか。それが92年バルセロナ大会からの平成7大会で男子26個、女子29個と逆転した。04年アテネ大会からは、常に女子が優勢だ。

大きいのは、女子種目の急増。88年ソウル大会で公開競技だった柔道女子が92年バルセロナ大会から正式競技になり、04年アテネ大会からはレスリング女子も採用された。国際オリンピック委員会(IOC)の男女均衡の考えが、参加人数やメダル数に直結した。

16年大会で12個の金メダルのうち4個を稼いだのはレスリング女子だった。04年大会で採用されて以来、全金メダルの半分以上を日本が独占している。88年ソウル大会男子代表で引退後に女子の指導に転じた栄和人は「女子は動きも技もへたくそだった。でも、強くなりたい、勝ちたいという気持ちは男子以上に強かった。だから、これだけ強くなれた」と振り返った。

「女のくせに」「女だてらに」…。昭和の女子スポーツには、その言葉がついて回った。今となっては信じられないが、メディアも「色物」扱い。柔道、レスリング、サッカー…。「女子がやっている」ことがニュースだった。「女子競技を認めてほしい」という思いが選手たちを支えた。

参加選手数やメダルの数では男子を追い越すほどの女子スポーツ。それでも、まだ日本のスポーツ界で女性の地位が確立されたとはいえない。日本オリンピック委員会(JOC)女性スポーツ専門部会長で理事の山口香は「確かに女子競技は増えたけれど、IOCが男子のスポーツを『女子にもやらせてやっている』という感じ。本当は男子のスポーツ、女子のスポーツがあっていい。結局、まだ男が女子競技を支配しているんですよ」と話した。

アスリートレベルでは減った男女格差だが、スポーツ界には依然として残る。指導者、審判、さらに競技団体役員などスポーツ界の指導的な立場。女子の場合は引退後に結婚、出産、育児などでスポーツの現場を離れることが多い。選手として培った経験を、立場を変えて生かすためにはどうするか。社会の仕組みを含めて変革が必要になる。

スポーツ庁やJOCは、20年までに競技団体の女性役員の比率を30%にする目標を掲げている。現状はJOCで18・2%、各競技団体の平均は12・6%で、女性役員が1人もいない団体もある。2月26日、JOCは都内で「スポーツ団体女性役員カンファレンス」を開催した。JOC初の試みに47団体の75人が参加。山口は「まず理事に30%。次に執行部に入ること。意思決定の場に女性がいることが大切」と話した。

平成時代の終盤、スポーツ界は揺れた。指導者や組織の不祥事、競技団体のガバナンスが問題になった。「男性社会の中でやってきた組織のひずみがでた。もっと開かれたスポーツ界でないと。その1つの象徴が女性」。昭和時代に柔道世界女王になり、平成時代は女子スポーツ発展に尽力してきた山口は、令和時代を前にそう話した。【荻島弘一】(敬称略)