スポーツ庁は3月27日、20年東京オリンピック(五輪)に向けた「重点支援競技」を発表した。補助金が多く支給される最高のSランクに柔道、体操、レスリングに加えて、バドミントン、空手が選ばれた。鈴木大地長官は「多くのメダルをとってきた伝統的な競技に加えて、バドミントン、空手という新しい競技が入った。今までと違う競技でもメダルがとれることを期待している」。

日本は長く体操、柔道、レスリング、水泳の「御四家」が五輪の主役だった。平成30年間で昭和時代にマイナーとされた種目が隆盛を迎えた。

バドミントンは、92年バルセロナ大会から五輪採用された。日本代表はかつて市営や企業の体育館の予約をとり、旅館で合宿をしたが、08年にナショナルトレーニングセンターができて環境が一変した。10コートを自由に使えて、食事も宿泊も完備。代表選手同士で高いレベルの練習を行った。04年に代表専属コーチとして韓国出身の朴柱奉氏(54)も招いた。当初は実業団チームとの摩擦があったが、約5年かけて代表重視のスタイルを確立させた。現在では桃田賢斗らが年間240日程度を代表活動に費やしている。

日本選手の最高順位は08年北京大会4強、12年ロンドン大会銀とステップアップして16年リオ大会女子ダブルスで金、同シングルスで銅。東京五輪では男女シングルス、男女ダブルス、混合ダブルスと全種目で金メダルが狙える。日本協会の銭谷欽治専務理事(66)は「代表の成績に応じて強化費が出て遠征ができるようになった。メディア露出も増えて企業側にもメリットが増えた」。

卓球も平成時代に成長した。88年ソウル大会から五輪採用。ただ平成最初の10年で出遅れた。中体連、高体連、日本学生連盟、社会人の年代がおのおのの強化に努めたものの、縦の連携が不十分だった。小学年代には強化組織すらなかった。

各組織の壁を打ち破り、年代縦断の強化体制を構築したのが現在の宮崎義仁強化本部長(59)だった。01年に男子監督に就任。和歌山の銀行を辞め、就任直後は無給。引き受ける際の条件の1つが「小学生のナショナルチーム新設」だった。昨年から7歳以下のナショナルチームも追加され、今では8段階の一貫指導体制。張本智和(15)は「100年に1人の逸材」と呼ばれ、小学時代に一般の部へ“飛び飛び級”した。宮崎氏は「このサイクルを続ければ日本はコンスタントに強い選手を育成できる。中国にも勝るとも劣らない強化体制ができた」。現在は6歳以下のナショナルチームも検討している。

海外の風も取り入れた。00年にドイツの強豪プロチームでヘッドコーチを務めたマリオ・アミジッチ氏をジュニア男子コーチとして招いた。中2だった水谷隼(29)をドイツ留学で指導したのも同氏。女子では福原愛さん(30)が05年から計4季、中国スーパーリーグに参戦。その後、石川佳純(26)平野美宇(18)も続いた。国内レベルを底上げし、トップ選手が海外で実戦を積む。両輪がかみ合って五輪金メダル候補を生み出すまでになった。

フェンシングは08年北京大会で太田雄貴(33)が日本初の銀メダルを獲得。現在は日本協会会長として斬新な手法で競技の魅力を発信。海外遠征も増えた。男子エペの見延和靖(31)は海外遠征について「めちゃくちゃ大きい。エペは国内の技術、経験値が低いので海外で剣を交えて得る経験値、情報は計り知れない。百聞は一見にしかず、です」と実力アップにつなげる。

五輪が商業化にかじを切った84年ロサンゼルス大会は21競技237種目だった。16年リオ大会は28競技306種目、東京大会は史上最多の33競技339種目が実施される。平成時代で幅広くなった競技の選択肢と、海外に打って出たパイオニアたちの勇気が、多種多様なスポーツ文化を花開かせた。