28日から続いたフィギュアスケート連載「令和に羽ばたくスケーター」では、平成最後となった今季の雪辱を誓う選手たちを取り上げてきました。最終回は女子の本田真凜(17=JAL)。練習拠点を米国に移して2年目となる令和初年度の来季も、我慢を重ねながら成長の道筋を探します。

年の瀬の2018年12月、大阪・東和薬品ラクタブドームで行われた全日本選手権。本田はショートプログラム(SP)18位と出遅れ、総合15位で2日間の演技を終えた。同じ会場で滑った2年前は、シニアに交じって4位。その頃からは想像できない立ち位置でも、17歳の高校2年生は決して逃げることなく、自らの気持ちを正直に口にした。

「こうなることはわかっての(米国行きの)決断だった。腐らずにやっていきたいです。今季はなかなかうまく演技できなかったんですが、少しずつ、なじんでくると思う。『もう少し時間が必要かな』と思うけれど、去年よりもスケートと向き合えていると思います」

平昌五輪(ピョンチャンオリンピック)前年の17年世界ジュニア選手権では、後に五輪金メダルを獲得するアリーナ・ザギトワ(ロシア)に次ぐ2位。スケート界を超えた注目を浴びてシニアデビューを果たしたが、五輪には届かなかった。「自分の中の可能性を伸ばしたい。五輪に出るのが、どれだけ大変か分かった。軽い気持ちじゃダメ。あと4年、必死で頑張らないと」。その覚悟を持ちながら18年春、兄で同じくスケートに打ち込む太一(20=関大)と、2人で海を渡った。

現在は米ロサンゼルスを拠点とする。教えを受けるのはラファエル・アルトゥニアン・コーチ(61)。今季の世界選手権で男子2連覇を果たしたネーサン・チェン(19=米国)らを育ててきた。ポリシーに沿っての一貫した指導は、日本を離れる前に師事した浜田美栄コーチ(59)と重なる部分があるという。一方で例えばジャンプは、同じ山を正反対の方向から登るような技術面の違いがあるようだ。本田と同様に新たな環境でもがく、太一は言う。

「正直なところ、ジャンプがこれだけ違うとは思わなかったですね。(跳び方が)しっくり来なくても『(3回転を何とか)降りられるだろう』と思っていたけれど、それさえもできない。そのきつさは、真凜にもあると思います」

日本との時差は、サマータイムの有無によるが16~17時間。妹で女優業と両立する望結(14=大阪・関大中)はシーズン中に「昼と夜が逆で、いつも向こうが夜中になっちゃうんです。唯一のタイミングがこっちの(午後)3時なんですけれど、なかなか…」と明かしていた。日本の午後3時が、ロサンゼルスの前日午後10~11時になる計算だ。

本田は朝から晩までスケート漬けの毎日を送り、日本の家族や友人と連絡を取る時間は制限された。兄と2人きりの家でも、日本ではほとんどしたことがなかったという、スケートの話題が多くなった。技術やメンタルの意見を交わし、それ以外は無言の時が流れることもしばしば。車で約20分のアナハイムにある、エンゼルスタジアムへ野球を見に行ったこともあったが、息抜きの時間は限られていた。人前で見せる笑顔の裏で、理想と現実のギャップに2人で直面していた。

アルトゥニアン・コーチからは常々「1年目はうまくいかないよ。2~3年かかる」と伝えられてきた。頭では分かっていても、切り替えるには時間がかかったのだろう。米国での苦悩を象徴する全日本選手権を終え、同コーチの言葉を思い返しながら「それでも『うまくいきたいな』という焦りもあった。でも、今回の試合で吹っ切れた。ゼロからのスタートです。少しずつ練習のことを、試合で出せるようにしたい」とプライドをそっと置いた。

自宅から目と鼻の先にあるアナハイムで行われた19年の4大陸選手権、母国の日本開催だった世界選手権のリンクは遠かった。令和初年度の来季は、日本スケート連盟が定める強化選手からも外れた。それでも決して、気持ちは切れていない。4月末のアイスショーでは映画「ラ・ラ・ランド」の楽曲を使った来季フリーを初披露し「有名な曲だけれど、自分らしく楽しく。もっとステップアップできたら」と誓いを立てた。

ジュニアだった頃、本田から「幼稚園の頃は『泥団子名人』って言われていました」と聞いたことがある。雨が降ればつぶれてしまうため、園庭の自分だけの場所に隠しながら、1週間かけて作っていたという。

「泥団子って、上の方の砂よりも、中の土の方がいいんです。だから頑張って、砂場を掘って…。1週間かけると、キラッキラの物ができるんです」

今の本田は雨に耐え、人目につかない場所で「キラッキラ」になる時を待つ、泥団子に近いのかもしれない。今季の全日本選手権でフリーに進めなかった兄と2人で、その砂をじっくりと固めていく。【松本航】