第55代横綱北の湖は、62歳で逝ってしまった。理事長時代、何度も相撲界が引き起こしてきた失態、不祥事の矢面に立ち、数え切れない批判を浴びてきた。褒められることなどまずなかった。横綱時代の威風堂々とした時代を知るからこそ、理事長になってから、いつも誰かをかばい、言い返すべき言葉をグッと飲み込んできた北の湖さんの姿が目に浮かぶ。

 北の湖さんがいつもやっていたことがある。東京開催場所の初日、昼すぎの理事長室。応接セットが置かれた部屋の横に、8畳ほどの和室がある。そこに、協会あいさつで着る紋付き羽織はかまが、付け人の手によってきれいに畳まれて置かれていた。スーツ姿の北の湖さんは、執務椅子に座って、えんぴつで熱心に何かを書き込んでいた。

 きれいな和紙に、協会あいさつの文章が清書されていた。その文章の脇に、HBのえんぴつで丁寧に印を入れる。「レ」の文字だった。1つ1つ、場所を確かめながら、ちょっと薄い筆圧だった。「このレ点は、何ですか」。そう聞くと、北の湖さんはまじめな顔で答えてくれた。

 北の湖理事長 息継ぎをするところだよ。

 思いもかけない言葉に、即座にやや失礼な口調で聞き返した。「理事長なら、レ点入れなくても息継ぎできるんじゃないですか」。

 北の湖理事長 協会ごあいさつは、絶対に間違えてはいけない、お客様への感謝の気持ちを伝える大事な時間だからね。たとえ息継ぎをする箇所ですら、ちゃんと印をしておかないと。土俵上で、とっさに迷った時に困るでしょ。そういうことはあるんだから。普通にできて当たり前。でも、間違えたら大変なんだ。理事長だから許されるなんてことはない。できるだけのことを準備しておかないとね。オレは、このレ点は毎回欠かさず自分で入れてるよ。

 北の湖さんの人柄が如実にうかがえた。大相撲を大切に思い、お相撲さんがバカにされないように、一般常識がないと言われないように、いつも腐心していた。理事長である自分が、人前で誰からも文句を言われない振る舞いをすることに、いつも全力を尽くしていた。

 ネクタイはおなかのベルトからちょっと下に出るくらい。少し長いといつも思っていたが「いや、この長さがちょうどいいんだ。オレの体形にはね」、そういいながら、笑った北の湖さんは、本当に優しかった。【井上真】