苦節15年、大関稀勢の里(30=田子ノ浦)が涙の初優勝を果たした。平幕逸ノ城を寄り切って1敗を死守。結びの一番でただ1人2敗だった横綱白鵬が平幕貴ノ岩に敗れて決まった。初土俵から所要89場所は史上4番目の遅さ、新大関から所要31場所は昭和以降では最も遅い。日本人横綱筆頭候補と期待されながら、あと1歩及ばぬ日が続いた最強大関が、最後の壁を打ち破った。文句なしの第72代横綱昇進を決めるためにも、千秋楽で白鵬を倒す。

 02年春場所の初土俵から89場所、5430日。やっと、この日が来た。長かった。そう思うと目頭が熱くなった。こらえきれなかった涙の滴が、右目からこぼれ落ちた。「うれしいですね」。言葉の合間に沈黙が挟まる。うまく出てこない。どう喜ぶべきか。そこに、苦労を積み重ねた稀勢の里の実感がこもっていた。

 逸ノ城を寄り切ってから、22分後。その瞬間は訪れた。髪を結い直した支度部屋。テレビは見なかった。だが、歓声が聞こえる。付け人が言った。「横綱が負けました」。2度うなずいた。ふーっと息を吐くと、赤いタオルを目に当てた。

 貴乃花に次ぐスピード出世で駆け上がり、10代から「将来の日本人横綱」とうたわれた。だが、幾度もあと1歩で阻まれた。今ではスロー記録に名を連ねる。

 11日目で後続に2差をつけながら失速した12年夏、重圧で食事がのどを通らず眠れない。普段飲まない日本酒をあおった。初日から13連勝も、白鵬に敗れた13年夏は千秋楽の祝賀会で「悔しい」と目を潤ませた。「このままじゃ優勝できないのかな」。愚直に貫く相撲道がぶれかけた。迷いが断ち切れたのは、1年前だった。

 昨年初場所、10年ぶりに日本出身力士の優勝が実現した。さらったのは琴奨菊だった。「言いたいことは山ほどあるが、胸にしまって来場所頑張る」。16年1月24日。本気で変わることを決意した。父貞彦さんが「自分からは意見を聞かない」と評する大関が昨年2月、かねて「食事を」といわれていた北の富士勝昭氏(元横綱)に電話した。同氏ですら「びっくりした」。相撲話は5分程度。ただ、耳を傾け、吸収する意志が見えた。変化の兆しだった。

 その2カ月後の4月、電話を受けた。9年来の親友、原耕司さん(27)の妻紗希さんからだった。親友にステージ4の大腸がんが見つかった。緊急手術が必要だが3カ月待ち。大関に黙っていた夫に代わり涙ながらの電話だった。すぐに病院を紹介した。「それくらいはできるから」。手術は成功。それでも余命は昨年9月と宣告された。

 大関は言った。「勝てば喜ばれ、負ければ怒られる。お前がステージ4なら、オレの精神はステージ5だぞ」。絶妙な言い回しで励まし、約束した。賜杯を抱く姿を見せる-。決心を固めてもらった瞬間だった。

 原さんは今「元気です。医者も『信じられない』と言うほど。大関に助けられた。僕にとって大関は神さまです」。だが、その姿こそ、大関の背中を押した。

 次は文句なしの横綱昇進へ、千秋楽で白鵬に挑む。「最後、明日しっかり締めて(喜びを)味わいたいですね」。報われた苦労。それは、1人では味わえない喜びだった。【今村健人】