海外の情報が周回遅れで伝わって来た70年代、日本でのジャニス・ジョプリンの存在感はむしろその死後に大きくなった。92年の尾崎豊現象に似たところがあると思う。
友人の強い薦めで2枚組のアルバム「ジョプリン・イン・コンサート」を聞いたのは76年。ジャニスが27歳で亡くなってから6年たっていた。当時、正規盤より3割程度安かったアナログ輸入盤はプレスが雑で、たわんでいた。プレーヤーのアームは上下に揺れていたが、軽いせき払いの後に「ダウン・オン・ミー…」と歌い出す、ハスキーで不思議な厚みを持った声に一発で引き込まれた。

- 「ジャニス」の一場面(C)2015 by JANIS PRODUCTIONS LLC & THIRTEEN PRODUCTIONS LLC. All rights reserved.
ジャニスは今回のドキュメンタリー映像の中で、R&Bのオーティス・レディングらの名を挙げて「たった一音で引き込む、憧れます」と明かしているが、この最盛期のアルバムにはそんな一音マジックを身につけた彼女の魅力があふれている。
米映画「ジャニス リトル・ガール・ブルー」(9月10日公開)は、そんな伝説の歌手の実像に迫る。エイミー・バーグ監督はジャニスが亡くなった年の生まれだ。アーカイブ映像を掘り起こし、実妹やバンド仲間に直接インタビューし、私的な手紙や日記を開封して、容赦がない。
少女時代には、美人コンテストを目指すような子だったことは映画で初めて知った。決して美人ではないから挫折する。それでも目立ちたいからカウンター・カルチャーのビートニクを気取り、学校で孤立する。それが内向的にアートの芽を育てることにつながる。

- 「ジャニス」の一場面(C)2015 by JANIS PRODUCTIONS LLC & THIRTEEN PRODUCTIONS LLC. All rights reserved.
皮肉なことに美人ではなかったことが伝説の歌手誕生につながったのだ。緻密な取材が実感させる。
生まれはテキサス州の石油の街ポート・アーサー。父は最大手の「テキサコ」に勤務、母は専門学校の事務職という保守的な家庭である。ただの反抗的な娘でしかないジャニスは、ロック界のスターになってもその偉大さを両親に理解されることはなかった。
そんな両親に認められたいという思いがジャニスの原動力になっていたのだから、これまた皮肉である。
24歳のとき、モントレー・ポップ・フェスティバルで圧倒的なボーカルが会場を揺るがす。映像からはジャニスのシャウトに客席が波打つ「連動」が伝わってくる。それからのとんとん拍子の成功物語は説明するまでもないだろう。それと背中合わせでドラッグに溺れていく過程も克明につづられる。
印象に残ったのは功成り名を遂げた27歳のジャニスが出身高校のクラス会に出席したときの映像だ。誰からも話しかけられずポツンと1人。テレビカメラが追っているのに、お愛想の歓迎風景さえない。ジャニスは撮影クルーに「私嫌われてるのね」とつぶやく。

- 「ジャニス」の一場面(C)2015 by JANIS PRODUCTIONS LLC & THIRTEEN PRODUCTIONS LLC. All rights reserved.
対照的に「フェスティバル・エクスプレス」車中の彼女には笑顔が絶えない。カナダ各地を「列車で移動したフェス」だ。グレイトフル・デッドらミュージシャンとのおおらかな車中セッションが続く。ジャニスは常に輪の中心にいる。「人とつながりたい」「歌うことでしかつながれない」。心情が浮き彫りになる。
振り返ってみれば栄光の裏で苦悩を抱え続けた昭和の歌姫、美空ひばりには母・喜美枝さんという最高の理解者が身近にいた。
音楽を離れると友人はいなかった。両親にも理解されなかった。女王の寂しさとロック史に残した業績のコントラストが残酷なほど鮮やかだ。【相原斎】



