Jリーグ創設の立役者の1人で、専務理事も務めた木之本興三氏がうっ血性心不全で15日、亡くなった。68歳だった。千葉市出身で古河電工(現J2千葉)の選手だったが75年に病気で腎臓摘出手術を受け現役引退。その後は、人工透析を続けながら川淵三郎氏らとプロ化に奔走。93年のJリーグ発足後も常務理事、専務理事を務め、日本サッカー協会の要職も歴任したが近年は体調を崩していた。葬儀・告別式は近親者で行う。喪主は妻広美(ひろみ)さん。

 サッカーに人生をささげた木之本氏が亡くなった。古河電工でプレーをしていた26歳の時、グッドパスチャー症候群のため腎臓を全摘出。引退を余儀なくされ、医師からは「持って5年」と宣告されたが負けなかった。5年半後に復職。その後人工透析を続けながら83年に日本リーグ事務局長に就任した。低迷期にあった日本サッカーの活性化に尽力し、プロ化の足掛かりをつくった。Jリーグの創設、発展に力を注いだ。そのJリーグが16日に死去を発表した。

 日本協会でも、02年W杯日韓大会に向けて、強化推進本部の副本部長として4年間チームを支えた。中村俊輔の当落が注目されたメンバー発表では、トルシエ監督に代わって選手名を読み上げるなど、協会と指揮官の間に立った。本大会では選手団長の大役を任されたが、大会期間中にホテルで倒れ、今度は閉塞(へいそく)性血栓性血管炎(バージャー病)と診断された。03年のJリーグ専務理事退任後は、車いす生活になって表舞台から離れたが、近年は千葉でクラブを主宰し、地域密着と若年層育成などに取り組んだ。

 関係者によると、今年に入り、千葉県内の病院で検査を受けた際には「順調」といわれていたという。しかし、先週末に体調が急変して入院。15日午後3時38分に、千葉市内の病院で息を引き取った。古河電工時代の後輩でもある日本協会の岡田武史副会長は「あの体で、本当に頑張ってくれた」と、その働きに感謝した。

 病に侵されながらも、サッカーへの情熱を忘れなかった。Jリーグ専務理事時代には「今日、病院から人工透析の世界記録樹立の花束をもらった。回数で世界1位らしいけど、まだオレにはやることがたくさんある。まだまだ頑張る」と豪快に笑った。日本リーグからJリーグへ移り変わる激動の時代にサッカー界を引っ張った功労者だった。

 ◆木之本興三(きのもと・こうぞう)1949年(昭24)1月8日、千葉県生まれ。東京教育大(現筑波大)卒業後の72年に古河電工入社。75年に現役引退し、退社後の83年に日本リーグ事務局長に就任し、プロ化を推進する。91年にJリーグの常務理事、98年から同専務理事。日本協会でも94年に理事、00年に常務理事となる。99年から強化推進本部副本部長を務め、W杯日韓大会に向けた日本代表の強化に尽力した。