Jリーグは15日、20周年を迎える。93年5月15日、国立競技場で開幕した川崎-横浜M戦。当時スタンドで観戦していた東京MF石川直宏(32)が明日の5・15、ナビスコ杯新潟戦で国立のピッチに立つ。サッカー少年として抱いた夢を現実のものにした20年を振り返ると、Jリーグとともに成長した足跡があった。

 夢にまで見た光景が、目の前に広がった。満員の国立。スタンドに揺れる各クラブの巨大フラッグ。上空には飛行船が飛んだ。川淵チェアマンによるJリーグ開会宣言の後、ライトに照らされながらV川崎と横浜Mの選手が入場。チューブ前田による君が代独唱の余韻も冷めやらぬ中、花火が打ち上げられた。5万人によるカウントダウン。キックオフのホイッスルが、Jリーグの始まりを告げた。

 カズが大好きだった12歳になったばかりの少年。石川が国立のスタンドから見たあの時の光景は、今もはっきり覚えている。

 「すべてが変わった瞬間。試合のイメージしかなかったのに、エンターテインメントになった。夢があって華があった。そういう世界の始まり。こんなに注目されてプレーしたらどういう気持ちなのか。夢だった場所が、目標に変わった瞬間だった」

 当時の入場券を大事に保管し、石川が歩んだ20年の道のりは、Jリーグとともにあった。その節目はいつもサッカー史が刻まれた。

 ◆下部組織

 J発足にともない各クラブに育成チームがつくられた。石川は中学から横浜Mのジュニアユースに所属。「プロになるには一番の近道」。その分だけ厳しさもあった。“あの日”から5年が過ぎた、17歳の冬。チームスタッフとの面接で「おまえはプロになれない」と告げられた。「どうにかぎゃふんと言わせてやりたい。ここで腐ったらダメだと思って必死だった」。

 ◆クラブ合併

 横浜Fが出資会社の経営不振により、99年から同じ横浜をホームタウンとする横浜Mとの合併が決定。下部組織も合併したため大所帯に。競争も激化。高校3年の春は試合に出られず「この時期に出られないのに、プロになれるのか」と葛藤した。

 ◆厳しいプロの世界

 高3夏の活躍が認められ、トップチームに練習参加。秋には仮契約を結んだ。顔ぶれは豪華。GK川口能活、DF井原正巳、松田直樹、MF中村俊輔…。だが、その年の冬「井原さんが、奥さんと犬を連れてクラブハウスに来ていた。自分は何も知らなくて、寂しそうにしていたから、どうしたんだろうと思っていたら」。元日本代表DFが戦力外だと後から知った。その背中が忘れられない。

 ◆期限付き移籍

 00年、プロデビューした場所も国立。しかし、出場時間は1年で2試合3分。02年の3年目も立場は変わらず「代表で手応えつかんでも、クラブでは蚊帳の外。サブ組にも入れない。練習する場も与えられないなら、環境を変えるしかない」。強化部に直訴し、期限付きならと承諾。1度は広島行きに合意したが、希望していた監督との面談がかなわなかった。決断しかねていたところ、J1昇格2年目の東京からオファーが届いた。原監督(現日本協会技術委員長)に「次のナビスコ杯に出す」と言われ「試合に出たくてしかたなかった」。開幕直後の4月という異例の時期だったが即決した。期限付き移籍は今でこそ主流だが、当時は多くはなかった。“あの日”から、10年目の出来事だった。

 今や、東京の「顔」にまでなった。紆余(うよ)曲折しながら「(Jリーグと)共に成長してきた20年」と言い切れる。そして、かつて目に焼き付けた国立に、今度は自分が立つという奇跡的な巡り合わせ。

 「あの時は国立のスタンドから見た景色しか知らなかった。ピッチから見る景色を見たくてしかたなかった。夢にも出てきた。夢から目標になったのが国立。あと何回見られるのか分からないけど、5月15日に立てるなんて。また発見があるかもしれない」

 明日は先発が濃厚。とことん国立に縁がある。【栗田成芳】

 ◆石川直宏(いしかわ・なおひろ)1981年(昭56)5月12日生まれ、神奈川県横須賀市出身。横浜ユースから00年に横浜加入。同年U-20W杯アルゼンチン大会に出場。04年アテネ五輪に出場。同年オールスター戦MVP。09年J1ベストイレブン。日本代表は03年12月の香港戦で初出場、国際Aマッチ6試合出場。175センチ、70キロ。家族は夫人と1女。